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期待などせず、ただ、生き存える

 ボクの5月病は5月に去らない。6月ならまだしも7月まで付いてくるので、もうそろそろいいんじゃないかね、と呆れるほど。しかしまぁその流れも10年以上の付き合いなので、この憑き物はお盆のような恒例行事なのだ。

 「止まない雨はない」だそうだ。

 気候としては最高なこの季節は、気持ちとしてはどんよりと重たいわけだけど、慣れというのはすごく、その重さにも苦しさはなく、またやってきてはどうせ去っていく周期的なものを観察する余裕までできている。

 うまくコントロールできずに過ぎていく日常はごまんとある。「あ、なんか調子いいなぁ」という日は、2週間に1回あれば上出来。そういう状況下だと、自身の振る舞いをどう評価し、明日を迎えるかが大切な作業でもある。

 10年前は過度に自分に期待しすぎていたから、うまくいかない日にドッと落ち込むし、できない自分を責め続け、明日がくるのが怖いし面白くもない。というか、ウダウダしてる間に明日がくるから、準備できていなくて、余計に物事はうまくいかないなんてことも多かったような気がする。 

 今となっては、(鍛錬のおかげで)自分への期待をしなくなったもんだから、「うまくいかなくて当然」という姿勢に気持ちも(生存戦略的なのか)移ろっていき、自分を高く見積もり過ぎていたことが、これまでの問題を引き起こす原因だとも気づいた。そう、5月病という憑き物自体は問題ではなかった。

 大事なのは「生き存える」こと。ただそれだけである。どんなに焦っても一朝一夕で物事は変わらない。動かせないもののほうが多い。だから、悠長でよい。微々たるやれることを粛々と積み重ねていくだけでいいのだ。

 春夏秋冬、ただただ生き存える。そうやって365日を過ごしているだけも何かしらの変化はきっと生まれている。それはその渦中にある自分では気づきにくいことで、時間が経過した後に気づけることのほうが多い。

 2〜3年前と比べたとき、いつの間にか、新たなジャンルの仕事が始まっていたり、猫と暮し始めて新たな感情をみつけたり、本嫌いだったくせに読書量が増えていたり、Adobeツールをいじれるようになっていたり、なんだかんだで変化はあった。

 期待を込め、意図していた変化がうまくいってなくとも、期待などもともとなかったところで、意図のない変化が生まれており、むしろその無意識なものの蓄積(集合体)こそが自分という人間の主要成分なのかもしれない。

 だから、"最低限"ができていればいい。最低限さえできればOK、それが日々を振り返る評価軸なのだ。その最低限が「生き存える」ことであって、その生き存えた先に、今じゃ皆目検討もついていないものがきっとたくさんある。

 いつかは止むことはわかってても、しとしと降り続ける目の前の雨に嫌気が差したときは、その"最低限"を思い出すようにしている。大事なことほどすぐ忘れちゃうし、各メディアからの情報でつい揺さぶられちゃったりするもんだから。

 そうそう、こういうダウナーな時期には、クスリと笑える漫画でも読むに限る。最近だと「少年アシベ」をじっくり読み直している。小さい頃は気づかなかったけど、天堂先生ってむっちゃサイコパスやな。

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