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いっしょに酔っぱらえないコミュニティ

昨日はお昼すぎから集落の寄合だった。こっちに3月から住みはじめて、初めての寄合である。というのも、集落のみんなで集まるのは年の瀬の12月と年越しの1月の2回しかないからだ。

田舎に住むっていうと、こういう集まりがめちゃくちゃあってご近所付き合いも頻繁にあると思ってたもんだから、拍子抜けである。

都会の感覚であれば、「あぁラッキー」と思うかもしれないけど、絡みを求めてた身としては、たった数十メートルの距離なのに普段なかなか会わない人もいるし、「もっと集落の人と絡むきっかけをくれ!」と思ったものだ。

というわけで、その年に2回のチャンスの一つがやってきたのだった。集落や神社の決算やら、次年度の役員選出やらものすごく事務的な時間が終わり、やっとで懇親会みたいな時間がやってくる。

と思ったら、ほとんどの人がそそくさと家へと帰るじゃないですか。あれ、聞いてた話と違うなぁ、と思いながら、残った4人で大量の缶ビールを開け、引っ越しのさいに集落に持ってきた日本酒の一升瓶を開けた。

3時間くらい60~80代のおっちゃんたちと飲むわけだけど、そのなかで聞いたのが「昔は会が終わったあとは、もっと多くの人が残ってみんなで飲んでたのよ」という話だった。

事務的な会のなかでは、しばしば集落の人たち同士でもやや言葉を荒げて言いたいことを主張しバチバチした瞬間があった。そういうのも、酒の席になれば「さっきのアレだけどさ...」とフォローできる時間ができるから、遺恨も残らぬまま、関係性もわるくなることなく、年を過ごせたんだとか。

お年寄りが増え、お酒を飲まない人もでてきて、飲む場は「たのしい時間ではない」といつしか思うような人が増えてきたんだろう。

田舎にいけば、またお年寄りになればなるほど、「酒を酌み交わさなければ距離が縮まらない」もので、飲み二ケーションが重要視されるものだと思っていたけど、とその概念を大きく覆されっちゃったわけだ。そもそも距離を縮めるための入口にも立たせてもらえないコミュニティの衰退ってあるのかもなぁ。

とりあえず、飲む場ってのは、お酒がなくてもいいわけだし、みんながすぐに帰らなくなるよう引き付けるものを用意したり、あらゆる人たちの人間関係を考えておかなくちゃいけんよねーと、集落の”飲み会のデザイン”について考えるいいきっかけになったのはたしか。

それと深酒をしすぎたせいか、今日は起きたらお昼すぎで、まだ頭がぐわんぐわんしてて二日酔いで、とにかく水を摂取しながら、乗っかってくる5匹の猫の重さにうーうーとうなり、隙間スキマで本を読んだり、Netflixで「水どう」や「四畳半神話大系」をチラッとみたくらいで、クリスマスイブを1ミリも感じない一日だった。

「メリークルシミマス」というクソつまらない文言をまさか味わうことになるとは。さすがにそろそろ元気になってきたのでちょっと仕事しやす。みなさんは、苦しむことのない、とりあえず普通以上のクリスマスを。

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