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しごとでデッドオアアライブ

 やらなきゃいけないことのおかげで、ギリギリ保ててるものがあるなぁ、と、ときどきふと我に返る。

 根本的には、世の中のほとんどのことには興味ないし、仕事なんてサボれるだけサボりたいに決まってるし、べつに円滑にやることが進められるのであれば(偉いとか偉くないだとかの)ポジションにだってどうだっていい。やらなくていいのであれば何もしたくない。仕事に前のめりなほうではない。

 そう、それは、何にも縛られることのない個人の感情であって、組織やプロジェクトに巻き込まれて動くとなると、その感情は覆われ、塗り替えられていく。

 目の前にやってくるものを面白がるためにはどうするかを考え、サボるというより効率よく作業を進めるために仕組みを探り、自分が動きやすくなるための最適なポジショニングを見つけたらそのために死力を尽くす。業務上やらなくていいことも、やってるとベターなことを極力やるようにする。だいたいの問題は、大喜利と思って向かうようにしている。

 逆にいえば、たいていのことは「仕事」と思ってでないとやらねーわな、と思うことばかり。こうしたほうが仕事しやすくなるわ、という作業環境を整えるために、”自分のため”にやってるだけ。「何でも関心があって手伝ってくれる人」とか勘違いされ声かけられたとしても、仕事としての関わる理由がなければ関わらないよね、そりゃあ。

 バーカウンターで考えてみると、その”内”にいるときは、どんな困ったお客さんであっても好きなろうとするが、その”外”に同じお客さんとしているときなら「ヤな奴には関わりたくねぇ」と素っ気なく対応してしまう自分を自覚してはいるので、オン/オフの切り替えは激しいタイプではあるのだと思う。 

 ただ細かく言えば、それは単に”オン/オフ”という話でもなく、その場にいる/関わる人との関係値を自分なりに無意識的に算出しながらどう立ち振る舞うかを導き出してるだけにすぎない。知ってる人、関係する人が増えれば増えるほどに、その計算はより複雑になり、緊張感も増していく。

 個人(プライベート)としてのボクは弛みに弛みまくっていて、そのときの自分は自堕落で破壊的な性格をとる。ただ法人(パブリック)としてのボクは、人当たりのいい生産的な性格をしている(はず)。

 個人の性格のままに人付き合いをしていたら、生きていくことは困難だし、地方のような小さなコミュニティにおいては孤立の道しかないだろう。

 これは、べつに「自分を殺して嫌々ながら仕事してるんです」という話ではなく、ある意味、「仕事だから」という束縛と緊張感に知らず知らずのうちに救われているんだよな、という実感を書きたかっただけの話。やる気はあろうがなかろうが、仕事をやってるといいこともある。興味のないことに強制力もって関わることで生まれた数少ない興味もあったわけだし。

 何もないかぎりは、朝てんで起きれないボクが、午前中にミーティングを入れることで全国のみなさんと同じような朝を歩めているのも、仕事のおかげっちゃおかげか。

「何でこれやってるんだっけ?」

 と最初はわからなくても、真摯に思考を重ねて続けていくと、なんとなくその意味がわかってくる、というより、自分なりの解釈ができてくる、ってのはあるわな。でもまぁ、それなりに時間がかかることだし、意味を掴む前にぶっ倒れちゃったら元も子もないから、考えるのを止めて手放しちゃったほうがいいこともあるんだろうけどね。

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