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力学

また漕ぎはじめた。やっと漕ぎはじめることができた。長かった。ほんとに長かった。ほんとのほんとに。

ここ一週間ほど毎日のように四〇〇字の原稿用紙に空虚な姿勢で挑んでいた。しかと意識をもって何かを書くわけでもない。ただただ手が思うことを白紙に記していく。白をゆがんだ文字で汚していく。自動手記へと化ける時間とも言えるかもしれない。自分のようで自分じゃない。自分が思ってることをもう一人の自分に代筆してもらっている。そんな感じだろうか。

「自分の動力について考えている」「メモを取るといい」「移動は煩悩との戦いであり、もはや苦行なんじゃないだろうか」「いつの間にか岡田を追ってしまっている自分がいる」

などと、一行目が記される。

”山が動いた”、とはこのことで、後はとめどなく手が動く。考える暇など与えない。というか、そもそも考えることなどできない。どう文字が綴られていくかは手だけが知っている。正しくは、先に記した一行、一行に対して思いもよらないスピードで呼応または返信するかのように回答してるだけなのだろう。

気が付けば、いつの間にかにゴール付近のマスまで筆が伸びている。その勢い誤って、毎度ながらに数文字超えてからフィニッシュを切る。

おそらく、これは四〇〇字だからいいのだろう。これが八〇〇や三〇〇〇にもなると、さすがにへばってしまう。「自分は、文章を書いてる」とちゃんと自覚してしまう。意識が芽生えるといけない。また書けなくなってしまう。

意識を押さえつけながら書ききるために、今の自分では四〇〇字くらいがちょうどいいのだろう。短距離ならなんとか。だけど、少しずつ少しずつ、また距離を伸ばしていきたい。距離によって走り方は違うのだけど、どの競技もたのしく無自覚に走り出せるように心身を整えたい。

とにもかくも、また書きはじめられた。

自転車は、最初のひと漕ぎがずっしりと重いが、その力の行く方向に逆らうことなくまた漕ぎ進めれば、二漕ぎ目、三漕ぎ目は軽やかになっていく。だんだんと回転力を増し、どんどん速く、ますます遠くへ行けるようになる。

今回、一体どこまで行けるのか、どこで足を置くことになるのか、皆目見当もつかない。というか、考えたくもない。知りたいことではない。無自覚なままに、勝手にどっかに行ってしまえばいいのだ。

そんなこんなでリハビリを終え(続いてる?)、明日も明後日もペダルを漕ぎに漕いでやりますわい。イルカも泳ぐわい。

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