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仮説は続くよどこまでも

学生の頃くらいから、よく聞くようになった「自己分析」。自分がどんな趣味嗜好・性質を持った人間なのか、を考えていくらしい。就活生とかは必死になってやっている行事みたいな位置づけなのだろうか。

いつも思っているのが、「自己分析しよう」という言葉はむっちゃ気持ちわるいよな、ということで、自己分析を目的化しちゃいけないよね、ということ。べつに、普通に、暮らして、働いていれば、否応がなしに「自分ってどんな人間なの?」という問いにぶつかるはずで、むしろそのクラッシュの連続じゃないのか。

イベント的に、「自己分析しました!私はこんな人間です!」と簡単に収まりがつくわけでもない。生きているかぎりは、とめどなく変化し続けるので(てか、変化し続けないと、なんだかなぁ、という感じで)、その時、その時の自己分析は、そのときの自分がもちうる最大の経験値と分析力で行うものなので、あくまで「仮説」程度でしかない。

さらにずけずけと言っちゃうと、その仮説は、思考と行動を重ねるなかで、移ろっていくわけなんで、”「考えることだけで、自分という人間を規定しよう」という発想もちょっと変だよなぁと。つまり、「思考はするけど行動はしない人」を見たとき、ムムムと思うのであって、さっき触れた経験値を増やさないと、分析力もあがらないし、まだ見ぬ自分の姿についての想像力もつかない。ようは、自分を図るための分度器がそもそもズレている可能性高いよねってこと。

観察から経験へ。自分がやる側に立ってみないと見えない世界観はたくさんある。だから、行動して、経験あるのみだし、やってみるなかで、”自分が思っていた自分とは違った自分がひょいと現れたり、ああ、自分ってやっぱりこういうとこあるよな、と事実を積み重ねた確信に迫ったりできる”もんじゃあないか。

と、もう一つ言えば、自分というやつは、他人が教えてくれるもんだとも思う。”自己”はもちろん自分自身のことなんだけど、自分だけで思っている自分じゃなく、他人から見える自分、また他人とのコミュニケーション/関係性のなかで現れる自分のほうがずっと信頼できる。

たま~に「自分が思っている自分をまわりが理解してくれない!」という人いるけど、そうではない。自分の表現力とか他の要素もあるんだけど、主観的に、あくまでこう思われたい自分を主張するよりも、客観的に、他人のなかに映る自分の姿のほうに目を向けたほうが健康的だ(まあ、主観と客観のどちらかに偏りすぎるのも危なくて、そのバランスの問題だろうけど)

「ストレングスファインダー」とか、いろいろ自己分析ツールはあるけど、時間が経過した頃に、また試してみると、結果が変わるなんてことはよくある。自分が思う自分というのは、つねに「仮説」でしかなく、発展途上なわけだから、実証実験し続けるしかない。

立ち止まって思考することは大事だけど、その振り返るための経験を積むほうがもっと大事で、つねにチャレンジャーで、つねに自意識の外にある自分の表情があるという余白を忘れずに、動いて、あがいて、日々を過ごしていきてぇなぁ、と自己分析中の知人の話をふんふんと聞きながらに思ったのでした。

(そういや、ときおり、こうやって意識が高ぶるときがあるよなぁというのも、文章を書きながらの気づきだったかも。お恥ずかしいかぎりで......)

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