つくることととどけること
仕事で文章を書くときは、自分が書いたものがどう読まれるかがやはり気になるもので、どういう人からどんな反応があるのかを考えてしまう。無駄にエゴサーチしちゃったりするのはまさにそれで。
「つくること」と「とどけること」は、なるべく一緒に考えていきたい。
自分はそういうタイプの人間だ。と言えばそんなもんでしかなく、「各々のプロフェッショナルに分業で任せりゃいいじゃん」という考えで動くことはできるし、たいていはその役割分担”という意識でものづくりが行われ、広められている気もする。
「ものづくり」という言葉がぴったりくるか微妙だけど、冒頭の話でいえば、自分の文章(=記事)が「つくること」で、記事を拡散させることが「とどけること」になる。
つくることととどけることを一緒に考えることは、「せっかくできたんだから、知られないのはもったいない」という発想で進めていくといいのかもしれない。
書き手としておもしろい取材ができて、インタビューイーを紹介し、「この人の〇〇は△△な人に響くだろう」だと思うなら、なおさらに”響くであろう人”にそもそも届いていないのはちょっぴり寂しいことである。
注意しないといけないのは、その”響くであろう人”も勝手にこっちの情報を拾いにきてくれるわけでもない。また何千字というボリューミーな記事でああれば、クリティカルヒットしそうな言葉に触れる前に記事を閉じたり、後で読むリストに入るだけかもしれない(結果、読まれないことも多し)。
「じっくり読めばわかるからさ」
という考えは、こちら側の傲慢でしかなく、記事(と記事に関わるもの/ひと/こと/ばしょの)魅力が伝わるように、端的に響きそうなポイントを練らなくてはいけない。ようは、ここからが「つくること」の先にある「とどけること」だろう。
記事とは別のところでいえば、おもしろいイベントがあったとしても、「えー、そんなイベントあったんだ!知ってたら行きたかったぁー」と言われてしまったら大失敗なわけで、人とイベントの絶妙なマッチングが生まれるように情報を広げることが大事なわけだ。
冷ややかな言い方をすれば、どんなにクソおもしろいイベントであろうと、そこに来てほしい人がきてくれなければ、それは無駄なのである。丹精込めて書いた手紙も読まれなければ、ただの紙切れでしかない。
思いがあって、その思いを感じとってくれる人あってこそのものづくりなんじゃなかろうか。
まあ何げなく、自分のつくるときの意識ととどけるときの意識が微妙に違うなぁと思うこともあれば、とどけるを前提でつくることもあるし、つくってしまったものをどうとどけるかを後付けで考えるときもあるし、「つくること」と「とどけること」は論議したらいくらでも酒の肴になるんだろうなと思った夜でした。
ああ、そういえば、noteは「つくる、つながる、とどける。」だったっけな。
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