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世界がもしジグソーパズルだったなら〜🧩二つの視点で考えよう🧩〜

・私とは、パズルの一ピースである🧩

という視点と

・私とは、パズル全体である🖼

という二つの視点。

世界を見る時に、ミクロとマクロの両視点を持つことが
大切だと思うようになった。

【一ピース視点とは】✳︎ミクロ視点
私は唯一無二のかけがえのない存在である。
私は他とは違う非常にユニークな存在である。

【全体視点とは】✳︎マクロ視点
何もかもが一つのものである。
何もかもが一つ意識である。
つまり、”私”は存在しない。
私や他者の魂も物理的な現実も含めた全存在は、
たった一つの”もの”である。

なぜ二つの視点が必要なのか?
それはどちらか一方の見方だけでは
偏りが出てしまうからだ。

【一ピース視点/ミクロ視点】だけでは、
自我が見える景色に限界があるし、
私と他者は完全に分離した状態のため、
他のピースとの比較競争がおきてしまう。

【全体視点/マクロ視点】だけでは、
私という個性が無くなってしまう。
そしてこの世界で一切個人的な体験ができない。

私たちは普段、ミクロ視点で世界をみる。
私とは世界の一部に過ぎないし、他人と私は違うと思っている。そしてそれはもちろん真実だ。

でもミクロ視点だけでものを見ると、私とは構成員だから世界の歯車に成り下がってもしまうのだ。
国の、会社の、地域の、家族の、ともかく自分より大きいものの歯車。
そこで死ぬまで続くうんざりするようなラットレース。

変わりばえのないちっぽけな世界しか見えないから、
自分の可能性ってこんなもんかと、いつの日か諦めモードになっていく。
あの子みたいに頭良くないもん、才能がないもん、明るくないもん、バカにされるキャラだもん。
その割にはバカ高いくだらないプライドを保とうと必死で、他人の不幸は蜜の味で、君は立派な歯車だねと他の歯車からの称賛が欲しくてたまらない。他人から嫌われるのが怖くてたまらない。どうしていつも負けてしまうの?どうして皆みたいにできないの?いつまで頑張らないといけないの?



でも果たして、今見えるこの世界だけが真実なのだろうか?私とは世界の歯車でしかないのか?

ここで、【マクロ視点】でも世界を見る重要性が出てくる。もし、他者も自分も同じ全体なのだという見方ができたなら、世界の見え方は変わってくるはずだ。

まず、他者を通して私を見つけることができる。
幸せそうなあの子は私の可能性なのだ。
イラッとくるあの人も私の可能性なのだ。
自然の雄大さ、美しさも私なのだ。
歯車だなんてとんでもない!
私とは全てで、何にでもなれる存在なのだ。

そして私たちは、無意識ではそれを知っている。

だから
人と会いたくなるし
恐いものも見てみたい
この人が好きで
あの人が嫌いだ
音楽を欲していて
旅に出たい
美しいものに感動し
醜いものから目を背ける

全てのものは私であるからこそ
なんらかの反応が起こるのだ。


人生を通して、その小さな小さなピースの視点から
パズルの全てを見つめている。
「私の全貌とは、どのようなものなのだろう?」
という疑問とともに。

だからこそ、ミクロ視点に戻り“私というピース”を
全うしなければいけないとも言える。
ピースの絵柄が出なければ、パズルは完成しないのだから。

私とあなたを比べるのは、
お互いの絵柄を際立たせるため。
だから有るも個性だし、無いも個性なのだ。
無いという状態が有るのだから。
それが良い悪いは自分で後から意味付けしているだけ。
だって、絵柄に良いも悪いもないでしょう?

さぁ、こうしている間にも
世界はあなたを見つけたがっている。

何が好きで、何が嫌いなのか。
何ができて、何ができないのか。

絵柄を出していかないと隣のピースが見つからないよ。

私とあなたは同じ。
あなたと私は違う。

嫌われたって大丈夫。
本当の本当は皆一つ。深いところでは愛されている。

そのまんまの自分で生きていこう!


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