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美術とオタク

とあるコンテストに向けて勢いのままに書いたら、路線が大きくずれてしまい、よくわからないところに着地したボツ作品の供養です。
美術の話をしているはずが、いつのまにかオタクについて語っていた。

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中学2年生の時、国語の教科書に赤瀬川原平の「神奈川沖浪裏」が載っていた。
これが授業でどのように扱われたのか、今ではさっぱり覚えていないのだが、小舟に乗った人々の描写から、その時の心理状態を推察しているところがおもしろくて、ずっと頭の片隅に残っていた。
思えばこれが、私と美術の出会いだった。
図工や美術の教科書は好きだったし、それまでにもいろいろな絵画を目にしてはいたけれど、「神奈川沖浪裏」は、まさしく描かれている荒波のごとく、心にざばーん!と飛び込んできたのだ。
以降、絵画を目にするたびに、そこに描かれたワンシーンの裏側を想像する癖がついた。
寝そべっている裸婦は、肌寒さを感じていないだろうか。フォリー・ベルジェ―ルのバーメイドは、お酒を作るのがあまり得意でないのかもしれない。
絵画の中にはいつでも日常があった。現実にはあり得ない出来事を描いていても、それは、その世界にとっての日常なのだ。

よく、美術鑑賞は教養ありきのものだと言われる。それは、政治的背景や宗教について知っていればこそ、より深くその世界を知ることができるためであるが、その点に関して言えば、私はまったくの「ニワカ」である。
その「ニワカ」が発言することなので、以降のことはひとつの稚拙な考えとして捉えてほしいのだが、私は、現在の三次元オタク文化にも西洋絵画史に通ずるものがあると思っている。

※ここで言及する「三次元オタク」とは、アニメやゲームといった二次元的なものではなく、アーティストやアイドルなど、実在する生身の人間を「推し」と呼ぶタイプである。
簡潔に「ファン」と呼べば良いのだろうが、彼らはファンと言うにはあまりに深いところまで入り込みすぎており、よりディープな表現をした方がしっくりくるため、あえて「三次元オタク」(省略して「オタク」)と記述する。

かつての西洋絵画史における確執と同じように、オタク文化の中にも「アカデミズム」が存在する。それは、ニコラ・プッサンやクロード・ロランのような、理想像を追い求める作風を揶揄した、純粋なファン心理である。
アーティストのあるべき姿というのは、演者としての偽りの姿であると思う。一般人とは違うフィールドにいる、偶像としての存在。しかしそれを求めるオタクは多い。彼らは大抵、自らの理想とするアーティスト像が崩れると、それを裏切りと考え、静かに離れていく。
アカデミーの美学を大切にするファンは、ステージに立つ演者の姿に夢を映す。
「推し」というからには、演者たちはすでに一般の人間ではない。もはや神である。アーティスト写真は宗教画であり、古くからの伝統にしたがった、由緒正しきものなのだ。

しかし、時代の移り変わりと共に、西洋絵画史にも革命が起こる。「印象派」の誕生である。
ギュスターヴ・クールベの代表作に「オルナンの埋葬」というものがある。田舎町の、名もなき人の葬儀の様子を、歴史画として描きあげた傑作である。
無名の一般人が神々と同じ扱いを受けている。アカデミーの美学に準ずるならば、それはありえないことだった。
クールベは現実に見たものをありのままの姿で描く写実主義者であった。私は思った。理想化されていない人々の姿を描くこの手法は、現代の配信文化に繋がっているのではないだろうか。
SNSの発展が目まぐるしい現代において、演者はいつしか、あるがままの姿をさらけ出すようになっていた。ステージパフォーマンスとは異なり、プライベートを想像させる演出は、演者とオタクの距離感を狂わせる。
コロナ禍においてそれは顕著になった。コンサートが中止になり、ライヴハウスが閉鎖され、劇場に立ち入る機会は滅多に無くなった。アーティストの活動は限定され、危うい演出が一層増えた。
演者とオタクの関係はアカデミックであるべきだった。
彼らは友人ではないし、ましてや恋人でもない。私たちにできるのは、理想化されたスチールから裏側の世界を想像することだけだ。
演者の提供する日常とは、まぎれもない非現実であり、まったくの作り物、すなわちフィクションなのである。

境目が曖昧になればなるほど、人はフィクションの世界に取り込まれてしまう。
適切な距離を保ち、現実の世界を大切にすることこそが、健全なオタクライフであると考える。

あれ。美術、どこ行った。

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