#夫婦2.0 夫婦像をアップデートできた話
思い違い
結婚して10ヶ月。子どもが生まれて5ヶ月。
最近、私はずっと思い違いをしていたことに気がついた。
我が家は共働きということもあり、夫婦とは、家庭の共同経営者であり、二人三脚の言葉のとおり、横並びで対等なパートナー関係だと思っていた。立場もフラットで権限もやるべきことも一緒。やるべきことの中には、それぞれの得意不得意はあるかもしれないが、1人が倒れても、もう1人がカバーできる。
イメージとしては、それぞれが家庭におけるほとんどの事柄を最低限はこなせる状態を目指していくものだと思っていた。だから常に相手や状況にアンテナを張り、心情に寄り添い、どちらかに負担が偏っていれば、率先して助けるなり、やり方を見て覚えるなり、家事の分担を見直すなり、感謝の言葉で労い合うなり、家庭の共同経営者として双方が積極的に働きかけ、改善に努めていくものだと思っていた。
こうした考えは、私自身もはっきりと自覚していたわけではないが、私が腰を痛めたことをきっかけに、これが理想の夫婦の在り方だと思い込んでいた自分に気づかされた。
そして私の方が夫よりも家事がこなせるがゆえに盲点だったのが、私のできて当たり前の基準が夫には高いということにも気がついた。
「気が利かない自分がどんどんダメな人間だと思える…」
夫からボソリとこんな言葉が出てきた。
これはまずい。夫婦の在り方を見直さなければ。
ことの発端
子どもが生まれてからというもの、それまで全く喧嘩もなく、険悪な空気になったことがなかった我々もたびたび喧嘩(言い争いとまではいかないが、互いにとって耳が痛い話)をするようになった。このあたりの話は、前回の記事にまとめている。
現在の私と夫の状況としては、以下のとおり。
私:育休中。朝から晩まで子どもと過ごし、家事全般を担っている。
夫:就業中。8時には出勤し、18時に帰宅。主に子どものお風呂を担当している。
夫の帰宅後は、子どもが寝るまでの間、夫婦が代わるがわる子どもの世話や家事を行なっている。就寝後の授乳やおむつ替え(1〜3回程度)は私の担当。こんな感じで、土日祝日であっても基本的なスタンスは変わらない。
そんな中、遂に私は腰を痛めてしまった。
左腰が攣ったような感じで、横になっても寝返りすらできないぐらい痛い。
幸い痛めたのは金曜日の夜。夫も土日休みで、特に予定も立て込んでいない様子。私の代わりに寝かしつけも夜間授乳もお願いしよう。なんとか頑張ってくれるだろう。
しかし痛む私の姿を目の前にしても、「大丈夫?」の一言もなければ、「夜担当代わるよ!」のオファーもない。少し残念な気持ちで私から「夜間の授乳代わってもらえる?」とお願いをし、引き受けてもらった。
が、慣れないせいか、夜中に子どもが泣いても気づかない。子どもが目を覚ますたびに、私が先に気づき、夫を起こして対応してもらう。結局2人とも寝不足で疲れも痛みも取れないまま朝を迎えた…
その後も、私からすると普通こうだったらこうしない?と思うモヤモヤと悲しさが積み重なり、改めて話し合いをすることにした。
互いの言い分
私からは特に
・体調不良の相手に対する思いやりや気持ちのなさ
・支え合う姿勢の低さ、融通の利かなさ
が、とても悲しかったということを伝えた。
良好な関係でこれからも長く生活を共にしたいと思うなら、相手を思いやる気持ちや愛情を大切にし、相手が悲しむような言動はしないのでは?と。
夫の言い分は、
・家事・育児をタスクに感じるようになってきて負担に感じている
・公私ともに忙しく、心に余裕がなくなっていた
・与えられた可処分時間に飛びついて、自分がやりたいことに意識が向いてしまっていた
・腰を痛めたことは認識していたが、心配まではできていなかった
・その結果、私や家事、育児の先々のことにまで気が回らなかった
と話してくれた。確かに思いやりがなかったかもしれない、と。
色々話す中で、「私と暮らすようになり、特に子どもが生まれてからは、気が利かない自分に気づき、どんどんダメな人間だと思うようになってきた」とも話してくれた。
正直、話し合い時点では、夫の言い分が全く理解できずにいた。
家事がタスク化することの何が負担なのか?体調不良の人が目の前にいたら自分が代わりに頑張るなり、サポートするのでは?どうすれば気が回るようになるのか?どうしてできないのか?という疑問ばかりが浮かび、終いにはプロポーズの時、大切にするって言ってくれたのに・・と恨めしい気持ちにすらなっていた。
ただ、こんなふうに思いながらも、夫は決してダメな人間ではないし、幸せになってほしい人だと思っている自分もいた。にも関わらず、夫にこんな気持ちにさせてしまっている…
なんとしても対処しなければいけない。
とにかく、まずい状況だということは理解できた。
思考の転換
話し合いの翌日も腰の痛い妻を差し置いて寝坊助を決め込んでいる夫にイライラしながら、朝の子どもの寝かしつけを終え、気持ちを落ち着かせるため粛々と洗濯物を干していた時だった。
「全然優しくない。私のこともう愛していないのかな。」
そんな言葉が自然と漏れた。
その瞬間、2つの出来事がフラッシュバックした。
自分の母親のこと。
私の母は深酒をするたびに機嫌が悪くなる人だった。毎晩毎晩、父と喧嘩をし、あれができない、これができない、気遣いに気づかない、何度言ってもわからない。と父を罵っていた。父は父で、やってる、頑張ってるの一点ばり。何年も何年も分かり合えない2人の会話を聞き、うんざりしながら仲介に入ることもしばしば。
それが本当に嫌だった。母のようにはなりたくない。ヒステリックな女になるのだけは嫌だ。でも同じ血を引いている私もその気があるかもしれない。そんな恐怖とも言える思いは実家を離れても、大人になっても消えることはなかった。
そんな母がよくぼやいていたのは「パパは全然優しくない」「パパは私のことを愛していない」だった。
今の私、母と同じこと考えてる…
そう思った瞬間、嫌だ!同じ轍は踏みたくない!絶対に自分の子どもに自分と同じような思いをさせたくない!という強い気持ちが湧き上がり、自分が、家族がどうありたいかをはっきりと自覚した。
こんなふうに不満を漏らしている状況は不幸せすぎる。自分を幸せにできなければ、夫も子どもも幸せにできない。だからまず自分が幸せになるように自分が変わろう!そう気づくことができた。
そして当時、私が母によく言っていたのは、「何がダメなのかわからない人に、わかってほしいとだけ伝えても理解できないよ」「やってほしいことがあるなら、具体的に言えばいいのになんで言わないの?」だったことを思い出した。
※おそらく母は母のやり方で父の愛情を試し続けていたのだろう。ちなみに、両親は70歳を超えても別れることなく、相変わらずやんや言い合いながらもなんだかんだ夫婦を続けている。夫婦って奥深い。
元カレと別れた時のこと。
結婚を考えていた元カレは、私以上に家事をよくこなし、部屋をきれいに保つ几帳面な人だった。毎日のルーティンが決まっていて、朝5時までには起きて、軽く仕事、ランニング、そしてトイレ掃除、床掃除(クイックル)を欠かさなかった。
そんな彼と別れる時に言われたことの一つが「あなたは変わってしまった。付き合いたての頃は、床掃除をしてくれていたじゃないか」というものだった。
正直、毎日のトイレ掃除も床掃除も彼のルーティンであって、私のルーティンだとは思っていなかったし、毎日掃除する必要性もあまり感じていなかった当時の私は、やりたいのは彼のこだわりであって、やってほしいなら言ってくれないとわからないよ!と思ったことを思い出した。自分の性格を考えると、言われたところで毎日できるかはわからないがきっと努力はしたと思う。
そして彼の期待に応えなかったからといって彼のことを愛していないわけではなかった。
もしかしたら夫もこんな気持ちなのかもしれない。
なんとなく家事がタスク化するという気持ちも理解できた。
フラッシュバックのおかげで、自分が勝手に飛躍した解釈をし、勝手に不幸に沈み込んでいたことに気づくことができた。夫は優しくないと感じている私も夫に優しくなかったのではないか、と反省をした。
冷静な頭で、改めて夫がどうゆう人間か考えてみると、言われたことはなんでも嫌な顔一つせず、文句も言わずやってくれる素直な人で、私にはなんの不満もないと言ってくれている。感情の下振れもない温厚な人。もちろん欠点に感じる部分はないわけではないが、こんな素敵な人、そうそういなくないか?とまで思えてきた。
これからの夫婦の在り方
当初は、あうんの呼吸でわかりあえる共同経営者のようなパートナーシップ(言い換えると自分のクローンになることを求めていたのかも?)を理想としていたが、そんな夢ものがたりはさっさと捨てて、私の長所、夫の長所をうまく発揮でき、互いの短所を補い合えるパートナーシップを築いていけた方が現実的で心地よいのではないか、と考えるようになった。
ふと、どんな家庭を作りたいか?という目的に立ち返ると、いつでも帰りたいと思える温かく笑顔にあふれた家庭を作りたいと思っていたことを思い出した。
今は、帰りたい場所にできているか?笑顔に溢れているか?そもそも自分は笑顔か?
と考えたときに、これから目指すべき夫婦像が見えてきた気がする!
これからは、わかってくれるだろう、言わなくてもわかってほしい、という気持ちは一旦封印し、家事全般に目が行き届くことが得意な私がリーダーとして旗振りをし、家事・育児を分担したり、やってほしいことは教育したり、家庭をマネジメントする意識を持とうと思う。
夫は何かとうっかり忘れがちなところはあるが、お願いしたことは懇切丁寧にやってくれる長所があるのでうまく頼ればいい。そしてちゃっかり自分がご機嫌になれる割り振りをしちゃえばいいのだ笑
自分がリーダーだと思えば、腰を痛めたことすら自分の落ち度だと思えてきた(もちろん人並みの心配とねぎらいはしてほしいが)。経営者なら腰を痛めても、頼る人がいなければ自分で経営をし続けないければいけないし、むしろそうならないように日頃から気を付ける、あるいはそうなってもいいように仕事が回る仕組みを作っておくはずだ。
洗濯物を干し終わる頃には、清々しい気持ちになっていた。
夫への感謝の気持ちも取り戻し、また日常に戻ってゆく。
こんな夫婦像を持ち始めたことを夫が知ったらちょっぴり悲しむかもしれないが、私が不機嫌よりはよほどいいだろう。
これからは私が家庭のリーダーだ。
そんな自覚を持って、家族円満に過ごしていきたい。
腰を痛めたことで、思いがけず夫婦像をアップデートすることができたお話でした!
仕事にも適応できると思うので、家でマネジメントのトレーニングをしながら復職の日まで過ごしてみようかな。