塾(2)

例の塾はgoogleマップで確認したらとっくの昔につぶれて、もうなかった。

完全に畳んだか移転したか。マップを検索したらだいぶ離れたところに一部同名の塾があったのでもしかするとそこでほそぼそと継続しているのかもしれない。

あそこでは代数学や英文法や生物の知識を教わった。のみならず受験に必要な知識をひととおり教わったはずだけど、なんで勉強をしないといけないのか?という肝心かなめの点はついぞ教えられなかった。

ずいぶん昔に流行った「ドラゴン桜」で伝説の教師(阿部寛)が言い放ったエポックメイキングな科白「自由に生きるためだ!」とは、いみじくも言ったものである。当時、私はあのシーンを眺めて只々素直に感動していた。

が、これはべつに三田紀房先生に喧嘩売りたいわけではないのだけど、あれから無駄に歳をとり、あれこれ世間のことを知って、ほとほとうんざりしている今となっては「えっ?」と違和感を覚える。

自由ってのはノージックやらロールズやらを引き合いに出すまでもなく複雑、かつ多くの矛盾をはらんでいる危険な概念だ。ひとたびその言葉を口に出したからには”義務”を果たさなければならなくなる。

換言すると、おのれの身が社会的幻想の恐怖に囚われること、原則的な極端な厳しさと不可分になることを意味する。その重圧とひきかえの、自由。

だからといって何だが心のどこかに「勉強したからって自由には全然ならんよなぁ?」とみっともなくヤジを飛ばしている自分がいるのだ。

まず、勉強して得られるものがあるとすれば、あくまでうまくいけばの話だけど「寄辺」(よるべ)であろう。大学にしても高度な専門職にしても、それなりに勉強しないと入れないわけで、またそこに「帰属」するためにはさらに勉学を積む必要があるわけで。

しかしそのような努力の末、ご待望の「自由」にまで到達できるのか?というと、それなりにYESの部分もあるのだろうがNOの方が部分的に大きいはずだ。

再び述べる。「寄る辺」の一員になる過程で社会の一員としてのさまざまな義務を果たすことが求められる。

私は外野から眺めているだけだが、経済人にしろ議員にしろ大学教授にしろ社会のお偉方ほどみんな各々の想い描く”自由”を行使するために、命を削ってその義務を果たしているように見える。

しかもこれですら「勝ち組」での話なのだから恐れ入る。もしこれが自由なのだとしたら自由は凡人には耐えられないものである。

凡人、つまり残り大半の寄辺なき者たちの事情はもっと悲惨だ。犬のような底辺同士の争いの日々がある。

だから、やっぱり勉強は自由に生きるためにするものではないのだ。そうではなく大半の人々にとっては「生き残りたいのなら勉強が必要」ってことなのだ。たぶん。

<続く>

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