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非/表現論#4|永遠性の価値合理性

まず価値合理性を尊ぶ人間の立場とは何か?

端的に「美」や「富」といった個人の全生命的な欲求を善とみなすものと再定義することもできる。前述したウェーバーのいう"欲求"とは違い、これらは抽象的観念である点に留意してほしい。

一方で、俺たちが心に思いえがく"「美」や「富」”も、永遠ではなくいつか終わりをむかえることは明らかである。

若く美しいグラビアアイドルやトヨタの高級車、現代アート作品...等など、挙げはじめればキリがないが、その大半が時間が経つにつれて「価値が減じていき、最期は価値がなくなる」。これは俺の主観ではなく、歴史上の事実でもある。

だから資本主義世界では何度となく「美」や「富」は死んでは蘇るように再生産される。

新人グラビアアイドルが現れては忘れ去られ、最先端のモダンなビルが建てられては壊され…を繰り返しているのはご存知と思う。スクラップ&ビルディングである。

とはいっても俺たちは心のどこかで、やはりこのような価値観はすでに限界を迎えていると感じてはいないだろうか?もしそれが言い過ぎだとしても、暫定的なものでしかない、と。

その予感すらない人間がいたとしたら、完全に「戦後日本」のパースペクティブの欺瞞に囚われている存在と批評できる。何も、思想の言葉を使わなくとも、この存在の”愚劣さを”素描することはいくらでも可能なのだ。

将来まともに売れる見込みもない新築マンションを、立ちんぼの営業マンにまんまと騙されて35年ローンで購入するサラリーマンとかがそうだ。

ピカピカの外装と内装だけをみて「これならローンで買っても良いし、最悪売れば大丈夫だ」と錯誤する。

だが20年後には、まわりにも他の"もっと良い"新築マンションが建ちならんでしまっていて、すでに資産価値は半分(以下!?)になっている。売ったら売ったで、何も残らない。

客観視すれば「非合理」でしかない選択を、現代の少なくない人々がやってしまうのである。きっとウェーバーなら「欲求」と指摘するであろう行為を、当の本人は「価値」と思い込む。

現実だけを見れば、かのようなものが戦後日本の「美」や「富」の内実ということになるのだ。

ならば未来に到来すべき価値観とは、近現代の資本主義システムの本質である、繰り返し消滅しては再生されるという「再生性」「刹那」といった性格をもたず、

それとは対照的に「自然」そのものの如き性格を帯びるはずである。

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