回想日記 Ⅸ

半年ほど前に職場にはいってきた男が、挨拶しにきた。
「お別れなので、挨拶に来ました」と男はいった。 「そうですか、異動先はどこですか?」 「クビになったんですよ」と、男はへらへら笑いながらいった。 当惑して、一瞬固まってしまったが、気を取り直して礼をした。

男は妙に明るく、誰彼かまわず声をかけて笑っていた。「ちょっと変な人だな」と思った。この職場もおかしいが。

ちょうどその時、上司がオフィスに入ってきた。辞める男に対し改まったように「さん」付けして、穏やかな表情で話しかけていた。ふたりがよそよそしく会話をするのを、まわりは気にしないふりをしつつ、耳を攲てる。

元凶はこの上司だ。隙あらば見下している同僚を弄って、困らせたり、笑いものにする男である。きっと子供の頃からいじめをしていた側の人間なのだろう。今も形は違えど、同じことをやり続けて、愉しんでいる。

彼の名前はあまりにありふれていて(”山田”という)、ネットでもチャット内でも検索するといくらでも同名のアカウントが無数に現れる。しかし本当に本名なのだろうか?...

関東平野の冬は空が透明で、日が街を照らす様相は殊に美しい。乾いた風は日の光線に晒され、仄かに暖い。こういう日も稀にある。

大きな排水路沿いの並木道を、車が気持ちよさそうに走行している。昔はこのあたりを政界の要人や、金持ちの紳士淑女が歩いていたのだろうか。ビルのうしろから陽の光が差し込んで、ほんのひととき、開放的な気分になる。静かに喜びをかみしめて、地下鉄のホームへ向かう。

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