見出し画像

リモートにおける日本語の通じなさ

リモートワーク(というかインスタントメッセージを業務活用する機会)が本格的に増えてから「日本語の通じない人」に接する機会も増加したように思う。

2019年末までは先端のIT企業くらいしか実際に体験していなかったリモートワーク。それが多くの業種を巻き込んで経験者が増えていくほど、インスタントメッセージにより円滑に仕事ができる組織の大前提には「日本語能力が一定水準以上の人を揃えたやりとり」が欠かせないと思うようになった。

対面でのコミュニケーションとの違いは何か。
対面で交換しているのは言語による会話情報だけではないなとつくづく思う。共通体験(同じ釜の飯を食う経験)を通した感情の醸成や連帯感であったり、同じ状況に接しているシチュエーション、表情、雰囲気、態度、服装などを含めて、「会話」をしている。

聞き手に届いた「単語と単語」が聞き手側の喜怒哀楽の感情の何と結びついているかは、相手の表情というアウトプットやリアクションで感じ取れる。
ところが文面のコミュニケーションは伝えたことが正しく伝わったかを確認する術(すべ)としては読み手側からのレスポンス情報が少なくリアルタイム性のあるインスタントメッセージでもやはり相手の理解度がつかめない。
この時点で相手が確信している理解と自分の伝えたことがミスリードしたままで話が進むことが圧倒的に増えたように思う。

純粋に日本語を書く能力(伝える力)と純粋に日本語を読み取る能力は、相互に揃って初めて通じあえる。が、共通のシチュエーション・表情・雰囲気・態度・服装で日本語の全体像を読み取っていた人とは…通じなさが露呈する(お互い苦行でしかない)。

そんなあれこれを考えていたら「AIに東大を合格させるプロジェクト」の話を思い出した。いま私が感じているこれは、日本語能力と知能(わかる能力)の話と似てないか?、と。

以下の〇〇に入る単語は何か といわれたとき会社内の人が同じ単語をセットできるかどうか、といったら自信は持てるか?
「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称でもあるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。Alexandraの愛称は○○である」
答えは、Alex。だが、半分の回答者が〇〇は女性と回答したそうだ。
それくらい日本語理解が国民に均質化していない。構造化を読み取れない。

インタビュー記事ではそれでも不都合なく社会生活を送る人間の曖昧さの部分にも触れているが、コロナ禍では、というか、新しい生活様式では、
インタビュー当時の2018年と同じように社会生活に不自由しない人々 とは言い切れない気がする。

参照)https://www.nttdata.com/jp/ja/data-insight/2018/090601/

いま私は、コロナ禍を1年経験して自分の日本語力と相手の日本語力の間に起きるフラストレーションを感じながら、ソロ活が増えれば日本語理解力の重要性は(ソロ活の伝え方のお作法とかか?)今以上に確実に増す未来を空想している。

日本語能力がズレる話の考察のあれこれはまた別の記事で。。。

画像1



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?