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背中の温もりは、

 「ん…おかえり」
 大和はいつも通り、「人をダメにするソファ」でおなじみの無印良品のソファに身をあずけながら寝ていた。私が玄関のドアを開ける音で目覚めようで、付けっぱなしの電気やテレビと一緒にまどろんだ空気を醸し出していた。

 私は2015年8月から、赴任先の茨城県水戸市で、大和と同棲を始めた。7月にマッチングアプリで知り合い、その日のうちに身体の関係を持った。その時、互いにピンとくるものがあり、1週間の冷却期間を経たのちに付き合うことになった。私の家は15畳の部屋と大きなクローゼットを兼ね備え、大和の職場から徒歩数分だったので、大和が少しずつ荷物を置いて帰るような形で同棲が始まっていった。互いに初めての同性パートナーで、周囲へのカミングアウトもあまりしていなかったため、こそこそとしながら楽しい日々を送っていた。

 大和は大雑把で優しかった、つまり一緒に生活していて楽だった。掃除や洗濯を率先してやってくれるが、とにかく大雑把。四角い部屋を丸く掃除し、洗濯物はハンガーに曲がった状態で干していく。それにイライラして強く当たったこともあったが、時が経つにつれ可愛く思えていって、私は笑っていた。寝る時は後ろから優しく抱きしめてくれて、先に寝息をたてるような人だった。愛おしかった。

 だけど生活は徐々にずれていった。私のせいだ。新聞記者として駆け出しの1年目は、事件とスポーツの取材が主な担当だった。殺人事件や大災害が起きれば一番に現場へ行き、全国で大きな事件があれば応援記者として駆り出される。スポーツは主に野球の担当で、土日に行われる高校野球の試合を取材して球児と一緒に肌を焼いた。
 帰宅は締め切りの後になることが多く、早くても夜の9時や10時。私が帰るころ、大和はコンビニ弁当の残骸をソファの横において寝ていることが増えた。それでも大和はいつも寝ぼけた目を擦りながら迎えてくれて、私は大和の上から覆いかぶさってハグをすることで一日の疲れを癒していた。

 付き合って1年が経とうとしていた2016年4〜5月。二人の関係に陰りが出始めた。私は記者生活2年目に突入したが相変わらずの生活で、どう考えても去年より忙しくなっていた。事件取材もスポーツ取材も任せられる案件が増えていた。大和は公務員のような会社で規則正しい生活をしているため、出勤も退勤も早い。寝ている私にキスをして出勤し、夜は私が帰る頃に寝ていることがほとんどだった。二人で過ごす時間がほとんどなくなっていた。

 自分が無駄に相手を束縛していることが辛くなっていた。今振り返ると、私が言うべきではないことを大和にいってしまった。
「大和、距離おこうか。自分の家に帰ってみなよ」


 大和は私と同棲している一方で、元々一人暮らしをしていた部屋を契約したままにしていた。会社を通して契約しているため、解約したら同棲がバレてしまう可能性があるからだ。大和は、私が土日に仕事をしている時に家に帰って掃除をしたりしていたが、私はその家に戻るよう勧めた。大和は明らかに落ち込んだ表情をしていた。だけど、私のがんこな部分を知っていたから、むりやり私の目を見て答えた。
「わかった。ちょっと帰ってみるね」

 私は6月に入っても多忙が続いていた。休みは月5、6日くらいだったし、休日の呼び出しや土日の出勤も相変わらずある。1、2週間の出張が突然入ることもあり、自分の家には寝に帰るくらいだった。大和がいない状況にも徐々に慣れていた。とはいえ、寝る時、背中に温もりがなくて寂しくも感じていた。
 ある夜、恋人なのだから当たり前だけど、LINEで食事に誘った。しかし、大和はなかなか私と予定を合わせてくれなくなっていた。歯車が狂ってしまったのは明らかだった。

 7月上旬。スポーツの取材のため、チーム関係者と会食に行った。仕事中は自家用車で移動しているため、その日はホテルに泊まった。会食は楽しく終わったが、大和と会いたいという気持ちがどうしても募ってしまい、午前0時を回ったころに電話をかけた。
 1、2回かけてもでない。寝ているのかなと思ったが、少しして折り返しの電話がきた。

 「もしも〜し、大和〜元気?」
 「環。酔っているの?どうした?」
 「大和はさ、俺との関係どうしたいの?」
 「どうしたいって・・・」
 「好きなの?俺のこと」
 「正直わからないよ」
 「え?」
 「ごめん」
 「それって別れたいってこと?」
 「わからない」
 「え」
 「ごめん」
 「なんで謝るんだよ」
 「俺もわからないんだよ」
 「でもそれって別れたいってことだよね。距離おいて、そう思ったんだよね」
 「そうかもしれない。辛かったんだよ。環が帰ってこない部屋にいて、環のものに囲まれているのが。だけど、自分の部屋に帰って会社の人と飲みにいったり、ゴルフにいったりして、自分の時間を楽しめたんだ」
 「わかったよ」
 「ごめん」
 「出ていって」
 「わかった」
 「俺、明日休みで、明後日から出張。出張から帰ってくる前に荷物を全部持っていって」
 「わかった、ごめん」
 「元気でね」
 「環もね」

 ユニットバスのトイレに座り、私は回らない頭をフル回転させていた。でも頭が回っていなくたって、わかった。恋が終わった。涙が止まらなかった。隣に泊まっている上司に気付かれてはまずいと思って、こみ上げる嗚咽をどうにか抑え込んで、当たり前の生活をした。涙を流しながらシャワーを浴びて、歯を磨いて、スマホを充電して、明日の着るものをわかりやすいようにまとめて、電気を消して、目を閉じた。楽しかった思い出も、嫌だった思い出も浮かんでくるけどどうにか考えるのをやめて、背中に足りない温もりにも気付かないふりをしようとした。

 朝がきた。心は落ち着いていなかった。それでも服を着替えて、歯を磨いて、帰り支度を完璧に整えて、上司と合流した。それぞれの自家用車に乗って、家を目指した。途中のコンビニでアイスを買って、朝なのに食べた。悲しくてもちゃんと甘かった。


 車内のCDプレイヤーに入っていたのはaikoのMayDreamだった。大和は、普段aikoを聴かないのに、私が繰り返し流していたら鼻歌を歌うようになっていた。

「なんとなく会わなくなって、夜の交信も途絶えて 思った事を言い合えたあのころがたまらなく愛おしい」(何時何分)

 運転しながらひとしきり泣き、家でも泣いた。

 翌日の出張はスポーツの大会だった。担当していたチームがあれよあれよと勝ち進んでいき、決勝戦を迎えた。大和のことを考える時もあったが、それよりとにかく忙しく、気が紛れていた。
 別れを告げてから約2週間。久しぶりに家へ帰ると、大きなクローゼットに入っていた大和の洋服は何もなかった。「わかっている、わかっている」。私から彼にそう伝えたんだから。食費として一緒にお金を入れていた封筒だけ律儀に残されていて、優しい大和らしいなと思った。私はクローゼットの取っ手を持ったまま、膝から崩れ落ちた。嗚咽をあげて泣くしかなかった。

 私はその後、大和がいない時に大和の家に置かれた荷物を取りにいった。もしかしたら思い出して愛おしくなってくれるかなとおもって、aikoのMayDreamのCDを机の上に置いてきた。
 大和と一度、二人で話した。私は声をあげて泣いた。別れたくない、あなたが好きだ、いなくなったら生きていけないと。大和は眉を下げて苦笑するだけだった。テレビでは二人が大好きなバレーボールの全日本代表が試合をしていた。
 それからまた後日、初めて行った寿司屋の駐車場にきてくれと呼び出した。もし、もう一度付き合う気が少しでもあるなら来てくれ、と。大和は了承してくれたものの、駐車場にはこなかった。私は大和のことが忘れられなかった。

 それから1年。私は今のパートナーと知り合い、付き合うことになった。大和のことを忘れたわけではない。今のパートナーへの気持ちと大和への気持ちは違うものだから、大和への気持ちを持ったまま付き合った。でも、今のパートナーと時を重ね、少しずつ気持ちの形が変わっていった。

 2020年9月、大和への気持ちを整理することができたとはっきり感じた。私はこれまで、大和への気持ちを「執着」「執念」「呪い」などとマイナスな感情のように自己解釈していた。しかし、私は家で食器を洗いながら、大和のことをふと思い出した時、「彼はきっと幸せに生きているだろうな」と思い自分の口角が上がったことを自覚した。大和への思いはマイナスな感情ではないなと思った。

 きっと、私が大和に抱いている思いは「願い」だ。私はまだ彼のことが好きだ。でもそれは、連絡を頻繁に取りたいとか体の関係を持ちたいとか私のことを強く思って欲しいとか、そんなことではない。彼が幸せに生き続けて欲しいということなのだ。そして、たまに私のことを思い出して「楽しかったな、こんな時もあったな」くらいにおもって欲しい。彼の人生が豊かになるカケラになっていれば良いなと願っている。

 私との思い出が良いものとして光ってくれてますように。

 大和を思い幾度となく泣いた日々は、人を大切に思う感情を育ててくれたのかもしれない。私の願いは大和に届かなくてもいい。それでも、私は大和の幸せを願い続けていくのだ。

<環プロフィール> Twitterアカウント:

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