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死と向き合う

こんにちは。おかゆです。
心理学における概念、HSPを自認しています。(診断は存在しないため、自認)

Highly Sensitive Personーーひといちばい刺激に敏感な人。私たちからみた世界は、深く、濃く、儚く、時に強烈で、そして尊い。

HSP代表というわけではないですが、そんな視点を持っているかもね、という前提共有をしつつ。

今日はこの場で、私的な内省をしていきます。私の内省が鏡になって、あなたが気になっていたことが浮上してくるかもしれません。一緒に潜りましょう。

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先日、祖父が他界しました。
祖母が亡くなったのが6月中旬、その旦那さんにあたる人が、祖父です。

3ヶ月間で、夫婦が旅立った。

祖母が亡くなった時、大人になってから初めて二等親以内の人が亡くなり、受け止め方がわからなかった。

ただ、なんとも言えない喪失感、自分の一部が消えたような欠落する感覚を覚えた。
めちゃくちゃにおばあちゃん子というわけではなかったけれど、社会人になって一人暮らしを始めてからも、たまに祖父母の家に遊びに行き、おやつをもらい、何気ないことや思い出話をしていた。

そういう、ただ一緒にいるだけでもいい関係を、私は大事にしていたようです。

いま、私を知ってくれている人は、私を社交的とか外向的と思ってくれる人もいるかもしれないが、実はちょっと前までは人とそんな流暢に話せないし、話題に詰まる人間でした。

だから、ただそこにいるだけでいい。
日常でこんなことがあったよ、こんなことに困ってるよ···だけでも、それを話していて会話が成立している。その関係が私にとっては尊かったのかもしれません。

逆にいえば、私は血族でいうところの身内や"関わりたい人"以外の相手に対しては、あまり心を開かないのかもしれません。

なにか共通点がある、深い話ができる、相手を思い遣れる。「相手の大切なことを大切にできる/したい人」とは関わっていたい。一方で、いくら明るくて人気者でお金持ちで社会的地位のある人であっても、人を粗末に扱う、他者を思いやる気がない、想像力があまりない人とは関わりたくないと思っています。

以前、「自分がやられて嫌なことは人にしちゃいけない」と言われたことがあります。
それは幼稚園か、小学校できいた論理で、その時は通用したかもしれませんが。

キリストの教えにおける
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」
というのは、その時代や文化、宗教的背景であればこそ成り立ったことである。

多様性といわれるこの時代において、自分主語の視点しか持てないのは、勿体ないことであり、他者を傷つけることにもなるのだろう、と思う。(私はこれに傷ついた)

持論を展開するくらいには、気力があるようです。
話がそれたので、戻そう。

祖母が亡くなった時は、家系的に日蓮宗だったので、日蓮宗のことを調べ、四十九日や三途の川、あの世という概念について思いを馳せていました。

これは誰が唱えて、どんな救いがあるのか。それの真偽は確かめようがなくて、けれど、脈々と受け継がれている。続くということは、続くだけの何かがあるのだと思います。
生きている人には、物語が必要らしい。
何かの教えというのは「生者」のための物語なのだと思う。

科学でいえば、「死」は心拍の停止や瞳孔の散大など定義された条件、指標がある。国によって死の定義は、違うのかもしれないが。ルールとして存在するから死亡診断書が作成できるし、葬儀に移れるのである。

科学的な死の宣告は、ある意味では「決められたことをそうであると突きつけられる」ことによって、諦めがつく瞬間なのかもしれない。ルールや定義がなければ、いつまでも肉体の存在によって、故人を求めてしまうことになる。

祖母の納棺に立ち会ったとき、冷たくなって、けれど静かに眠るように、もしかしたら目覚めるのかもしれないと思わされる姿に、心が震えていた。

「死」とはなんなのか。
「生」とはなんなのか。

仏教の教えをいくら聞いても、私はきっとこれだけでは納得しないのだと思う。日蓮上人がなぜ南妙法蓮華経と唱えたのか、後世に続いているのか、その過程や背景を知らなければ、ただ「此れは、〇〇が唱えたから、こうあるのです」と言われても、説明にならないのである。(世の中はそういう、なにか言っているようで、何も言っていない説明が一定数ある)

祖父の葬儀はまだ少し先。
祖母のときにも、手紙を書いた。
今回も、祖父に宛てた手紙を書こうと思う。

まだ、心の整理がついていない。
死というものが、日常から切り離されすぎていて、急に直面すればこそ、これだけの戸惑いがあるのだと思う。


どうだろうか。
身近な人、大切な人の死に直面された方。
「死」とは
「生」とは
なんなのでしょうか。

答えなんて、ないのだろうけれど。
それぞれの思うことがあって、それを胸に、いつか終わるこの鼓動を持って、我々は生きている。

今度読もうと思っている書籍がある。
養老孟司先生の「生きるとはどういうことか」

積ん読しているのだが、手にとって、開いて目次を見たのだが、心が読むことを拒否した。

『まだ、知りたくない』

と心がいっている。
世の中に絶対的な正解はないが、養老先生の書籍を今まで数冊読んできて、共感することが多かった。
きっと、読んでしまったら「わかってしまう」気がするのである。

まだ、受け入れられていないらしい。

高齢ではあったけれど、もう少し、この世界で一緒にいられると思っていた。
おじいちゃん。

おじいちゃん、もう少し先、おばあちゃんと会えるだろうか。会えるといいね。

祖父の訃報をきいた直後にしたためた文もあるのだが、鮮烈すぎて、これを公開することは、なにかを進めてしまう気がして、止めている。これも落ち着いた頃に。


それでは。
私的な内容でしたが、私の内省が鏡となって、なにかの気付きに繋がったら幸いです。
私達の心臓は、まだ動いている。
生きよう、また。

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