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岡本綺堂の大久保②


 大正12年。
 その頃でもまだ大久保は東京の郊外だった。淀橋区大久保として、東京市に編入されるのは、昭和7年のことだ。大久保に住んだときのことを、綺堂は「郊外生活の一年」という随筆にまとめている。

 「省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。(中略)湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、一々かぞえ立てたら色々あるので、わたしもここまで引込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山が原にも春の草が萠え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶が悠々と高く舞っていた。
『郊外も悪くないな』と、わたしはまた思い直した。」
          (岡本綺堂「郊外生活の一年」)

 当時の大久保の情景がたっぷりと描かれたこの随筆は、何度読み返しても興味が尽きないほどで、その描写から、当時の大久保の面影が見事に立ち上ってくる。

 綺堂の日記をもう少し見てみよう。4月6日の日記である。

 「中野と大通りの草花屋へ行って十鉢ほど買って来る。ここらでは花を裁える人が多いとみえて、花屋は頗る混雑していた。」  (「岡本綺堂日記」青蛙房 1977)

 中野というのは、綺堂の門下生にして劇作家の中野実のことだ。日記にも度々その名前が出てくる。
 大久保は、躑躅園の影響か、植木屋なども多かったようだ。

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 「一時ごろから家を出て、目白駅で下車。それから徒歩で雑司が谷の橋下くら子さん方を訪ひ、先日移転祝を貰ひたる例を述べ、焼海苔の罐詰を差置きて帰る。それから早稲田へ出て、書店をひやかして古本三冊をかひ、下戸塚へ出て帰ると、午後から吹き出した西風がいよいよ強く、戸山ヶ原から吹き寄せてくる砂塵濠々、殆ど眼もあけないほどであるには驚いた。初めは原を横ぎるつもりであったが、途中から路をかへて西大久保に出て大通りをまっすぐに帰る。」  (前掲書)

 おそらく、綺堂は、下戸塚あたりから、戸山ヶ原に入り、まっすぐ近道をして自宅まで帰るつもりであったのだろう。ところが、戸山ヶ原のからっ風が強すぎた。そこで、今で言う明治通りを南下し、大久保通りを西に入って、帰ってきたのだろう。明治通りは、ちょうど、この年、大正13年に開通しているから、おそらく、できたての明治通りを南下してきたのではないだろうか。

 また、10月9日には、こんな記載もある。
 「午後、西大久保を散歩。新築の家が日ましに殖えてくるのが目についた。古本屋をあさって二三冊買って来る。」

 11月11日には、

 「婦人倶楽部の原稿を投函ながら散歩。百人町の表通りにはだんだんに商店が殖えていくやうである。ここらもやがては郊外の気分を失ふやうになるかも知れない。」
 
 震災後には、都心から郊外への移住が進んだ。もちろん、中央線という、郊外へと伸びる交通網が整備されてきていたのも大きな要因で、実際に、明治期の終わり頃から、大久保の人口はすでに増え始めていた。「新宿区史」(新宿区 1998)によれば、震災で、新宿二丁目から新宿駅あたりの界隈は大きな被害を受け、ほぼ全焼であったが、被害の少なかった周辺地区では、一時的な避難者も含めて人口が一気に増加したという。ただ、四谷や牛込は、すでに人口が限界点に達しており、それでは、と、当時は東京郊外であった、大久保を含む淀橋地区に人々が移り住んだ。大正9年に9万人ほどだった人口が、震災後の大正14年には、13万人を越えていたというから、綺堂が感じていた町の変化は数字の上から見ても間違いなかったのだ。
 震災直後の12月、三越が新宿にマーケットを開いた。小石川や青山、銀座、など、東京市内で8か所開設したもののひとつだという。三越以外にも、多くの店舗が作られた。新しい盛り場として生まれ変わる時期だったのである。

 さて、11月14日の日記を見てみよう。

 「午後は髪を刈りにゆく。理髪店の前には大久保キネマという活動写真館が新しく出来ることになって、しきりに工事を急ひでいる。」

 第二次世界大戦で焼けてしまうまで、大久保キネマという映画館が存在した。綺堂の日記から、その完成は、どうやら震災直後のことであったようだ。場所は、新大久保駅の改札を出てすぐ右手のガードをくぐり出たところで、大久保通りと、新宿の方へ伸びた道の角である。この映画館、洋画専門で、新宿の武蔵野館の改築中には、一時東京の封切館のひとつだった、と、徳永康元は語っている。(「大久保七十年」)
 その大久保キネマの前に、綺堂の通っていた理髪店があったということだろう。

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 綺堂は風呂が好きだった。
 「郊外生活の一年」でも、綺堂は風呂について多くを語っているし、「綺堂むかし語り」という随筆でも触れている。また、「風呂を買うまで」という随筆もあって、

 「わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草|千束町辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。」

 という書き出しで始まる。
 綺堂は大正8年と書いているが、中野栄三著「銭湯の歴史」(雄山閣 1970)によれば、朝湯の廃止は大正11年となっている。とにかく、その後、営業時間は午前11時以降とされたという。

 「風呂を買うまで」には、住んでいた麹町や麻布でも毎日のように湯屋に通っていたらしいことが書かれているが、それに続いて、移転先の大久保での風呂事情も伝えてくれる。

 「いわゆる東移西転、どこにどう落付くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日通っていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲湯は風呂一杯に青い葉をうかべているのが見るから快かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々と湿れた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日も生憎に陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、更に爽快であろうと思われた。」
 
 綺堂は、都湯という湯屋に通っていたようだが、実際に日記を見れば、綺堂が毎日のように風呂へ通っていたことがわかる。

 6月5日には、
 
 「一時半ごろ入浴。諏訪神社奉納相撲の力士等が大勢入浴、風呂場は頗る賑はつていた。」
 
 などという記述もある。諏訪神社は、綺堂の家からは、戸山ヶ原を隔てた向う側にある。

 ところが、夏になって、綺堂の入浴事情にも変化が起きる。通っていた都湯がどうやら遠かったらしいのだ。

 「幾月か住んでいるうちに、買い物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの凉しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気に悟るようにもなった。」
                            (「郊外生活の一年」)

 「湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸に井戸の水は良いので、七月からは湯殿で行水を使うことにした。大盥に湯をなみなみと湛えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。」      (「風呂を買うまで」)

 つまり、夏の時期には自宅で風呂に入ることにしたようだ。といっても、風呂場はあっても、木製の風呂桶である据風呂がなかったので、盥に湯を張って行水をしていたということらしい。

 「わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立は先ず一通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も浮び出さない。」 (「風呂を買うまで」)

 などと謙遜するが、大久保の庭先で、畑を眺めつつ、虫の声を聴きながら行水とは、現在では想像ができないが、暢気であり、どこか風流でもある。

その同じ6月5日、綺堂は、「摂政宮殿下御成婚祝賀の当日」と書いている。「摂政宮殿下」とは、のちの昭和天皇裕仁であり、当時は皇太子だったが、久邇宮良子女王と、この年の大正14年1月26日に結婚している。その後、5月31日から6日間に渡って、祝賀の宴や行事が続き、特にこの日、6月5日は、皇居前広場で、東京市主催の大祝賀会が催され、30万人の人々が集まったという。

 「それらの郵書を投函ながら大通りを散歩。国旗と軒提灯で賑はふ。」

 大正天皇が崩御するのは、翌年の大正15年12月であり、その年のうちに摂政宮が即位し、天皇となるのである。大正が終わりを告げ、時代は昭和へと移っていくのだ。まさに、昭和前夜なのである。
 
 また、目の前に広がっていた戸山ヶ原の軍事演習の様子も描かれている。

 「陸軍の射的場のひびきも随分騒がしかった。戸山が原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。」
                       (「郊外生活の一年」)

 とあるように、何しろ、当時の戸山ヶ原は陸軍用地である。陸軍用地となったのは明治7年のことだが、とにかく、流れ弾による被害が続出し、住民からは苦情が絶えなかったという。
ようやく、昭和2年に、屋内式の射撃訓練場が完成したが、綺堂が住んでいた頃は、まだ、屋外で射撃訓練を行っていたわけだから、戸山ヶ原に面した家では、騒がしいのはもちろんのこと、身の危険さえあったろう。

 また、もうひとつ興味深いのが、「翁亭」である。前出の皇太子成婚の日、6月5日には、「翁亭で夕飯をくつて七時ごろ帰宅。」とあり、その後も、何度か、「翁亭」で食事をしたという記述が出てくる。
 
 「散歩ながら大通りに出て、翁亭で昼餐。」(6月13日)
 「大久保駅で下車。翁亭で晩餐を喫して四時半頃帰宅」(6月17日)

 さらには、
 「夕方から大久保の通りを散歩。おきな亭で洋食。」

 とあるから、「翁亭」はどうやら洋食の店だったということがわかる。場所は、大久保駅のすぐ隣だったようだ。

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 実は、「三浦老人昔話」にも、大久保の洋食屋が登場する。

 「その日は三浦老人の家で西洋料理の御馳走になった。大久保にも洋食屋が出来たという御自慢であったが、正直のところ余り旨くはなかった。併しもと/\御馳走をたべに来たわけでないから、わたしは硬いパンでも硬い肉でも一切鵜呑みにする覚悟で、なんでも片端から頬張っていると、老人はあまり洋食を好まないらしく、且は病後という用心もあるとみえて、ほんのお附合に少しばかり食って、やがてナイフとフォークを措いてしまった。」

 大久保に三浦老人を訪ねていたのは明治20年代後半の話だと想定されるということはすでに書いたが、果たして、「翁亭」がその頃にできた「洋食屋」なのかはわからない。ここでいう「洋食屋」とは、とんかつや、コロッケ、カレー、オムライス、など、西洋料理を和食化した、いわゆる「洋食」のことだろう。岡田哲は、「一八九七年(明治三〇)頃になると、東京の洋食屋は、急速に普及して一五〇〇店にも達した。」(岡田哲「明治洋食事始め」講談社学術文庫 2012)と書いているが、この洋食の急速な普及の時期と、「大久保にも洋食屋が出来た。」時期とは重なっているのが面白い。ちなみに、東京の洋食屋の元祖とも言うべき上野の精養軒の創業は明治9年である。とにかく、大久保で綺堂が通っていたと思しき「翁亭」が、この「洋食屋」のモデルになったのは間違いないのかも知れない。

 綺堂は、大正14年6月、大久保を出ることとなった。
 震災後の区画整理の目処がつき、元の麻布の旧宅近くに借家を見つけたのである。

 「震災以後、先づ高田の額田方に立退いて、ここに約一ヶ月半、それから麻布に移って約半年、それから大久保に移って一年二ヶ月余、あはせて二年に足りないうちに三度も居所を転じて、今度も又もや麹町に引き移るのである。」(6月20日)

 綺堂が大久保に居を構えていたその3年後の昭和3年、「二銭銅貨」でデビューして5年、探偵小説の傑作を次々と発表していた34歳の江戸川乱歩が、諏訪神社の裏側あたりに引っ越してくる。諏訪神社は、綺堂邸の目の前に広がる戸山ヶ原を北東に横切ったところに位置している。つまり、数年の時間の隔たりはあるものの、綺堂と乱歩という、日本の探偵小説の歴史を創り上げたふたりが、戸山ヶ原をはさんで向かい合っていたのである。直線距離にすれば、500メートルといったところだろうか。もっとも、乱歩がこの場所に住んだ時間は短く、引っ越し魔としても知られる乱歩は、その後も、少しずつ東へ、つまり早稲田方面へと居を移してゆく。
 しかし、おそらくは、その頃の土地勘をもとに書き上げたのが、昭和5年に発表した「黄金仮面」であり、昭和11年に発表した「怪人二十面相」である。どういうことかというと、「黄金仮面』ではアルセーヌ・ルパンが、「怪人二十面相」では二十面相が、戸山ヶ原にアジトを構えているのだ。アジトについては以前に考察したが、この稀代の怪盗ふたりは、おそらく同じアジトを使っており、その場所は、戸山ヶ原の北側のはずれ、山手線の線路の西側あたりと推測される。つまり、綺堂邸から歩いてほんの数分、距離にして、おそらくは300メートルあまりの場所なのだ。

 乱歩作品に戸山ヶ原が登場するのは、実は、この2作だけではない。「黄金仮面」に先立つこと 年、大正14年3月に雑誌「新青年」に発表された「黒手組」である。その当時、東京中を荒らし回っていた賊徒の一味が、ある令嬢を誘拐し、その身代金の受け渡し場所として指定したというのが、戸山ヶ原なのだ。大正14年3月、というと、まさに、綺堂が戸山ヶ原に隣接する百人町に住んでいた時分であり、つまり、身代金の受け渡しは、綺堂の目と鼻の先で行われたことになる。ただし、「黒手組」事件が起こったのは、発表に先立つこと4年、大正10年だという検証もあることは付け加えておこう。

 百人町に住んでいた頃に発表された「黒手組」を、綺堂は果たして読んでいたのだろうか。さらには、綺堂が大久保を離れてから、怪盗ルパンや、怪人二十面相が、戸山が原のアジトに潜んでいたことは知っていたのだろうか。

 綺堂が亡くなったのは、昭和14年、66歳の時で、乱歩が「怪人二十面相」を発表した3年後であった。

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