フェミの言う「一人一派」と「学問」って両立するのか?


 フェミニズム勢力の一部から時折出てくる「一人一派」という言葉がある。

 大まかな考え方・利用法としては、フェミニストであったとしても一人一人の考え方は違うことを基本とする。一人一人考え方が違うのだから、特定の批判行為に対して、考え方が違うのでその批判は私に言われても意味のないことである。

 といった感じで使うわけだ。 

 もちろん、矛盾した理論や間違いの指摘から逃れるための方便である。現実的に考えたとしても、共通的な考えや思考がないと共同活動や理念を広めるのにも無理がある。一人一人の考え方が認められるなら、フェミニズムが普段展開している理論と矛盾した論理を持ちいてもいいのだろうか?とも考えられる。 

 少し考えただけでも非現実的でありえない話であるが、仮に認めるとしても学問の定義に反しないだろうか?という可能性を提示したい。

1 学問とは?

学問とは [名](スル)
1 学び習うこと。学校へ通ったり、先生についたり、本を読んだりして、新しい知識を学習すること。また、身につけた知識。「学問のある人」「学問する楽しさ」
2 理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法の総称。学。     出典:デジタル大辞泉(小学館)

  フェミニズムを学問の分野として考えるため、2の定義を参照に考えていく。

 黒く強調している「体系づけられた知識」とあるが、定義(体系的)としては

たい けいてき [0] 【体系的】
( 形動 )
体系が整っているさま。組織立っているさま。システマチック。 「 -な研究」 『三省堂 大辞林』 より

 となっている。

2 定義にあてはめると?

 一人一人の考えからが完全に違うとなれば、考えや思想がそろっているということはできない。また、フェミニストに連帯やつながりがないというのであれば組織立っているともいえない。この方向で考えると、学問の定義に「一人一派」は完全に合致しない。

 「一人一派」であるといっても大同小異であり、ある程度は考えが一緒であったり、体系的な面を有していると考えることもできよう。

 現実的にはこう考えるのが筋はいい。だが、フェミニスト一人一人の考えについて、今度は誰とどう違うのか?どこまでが一緒なのか?明確な提示がなければ他人には通じない。共通的な部分が批難対象というようなことになれば、もちろん「一人一派」という言い訳は通じない。

 共通項というまとまりがあるなら、まとまりがないとする考えと矛盾しないか?ともいえる。

 そもそも、「一派」という言葉すら流派、仲間、一味といった意味合いがあるため、矛盾している。言葉としても成立していない、根本からおかしい言葉を使っている時点で、支離滅裂で学問的なものとはとても言えない。

 反論に困ったからといって、変な言葉を作っては使用すべきではないものだ。

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