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『有名にならないで欲しい』というコメントの違和感について

ありがたいことです。コメントをもらうってなんて最高なんだろうと思いつつももなんだか明らかになってきた違和感の感覚を距離が近いうちにしっかりと共有していこうと思う。

世界を素手で触れる感覚に出会う

この感覚に出会ったのは『煌めき』のリリースが大きい。海外からの人の評価が増え、コメントをもらう機会があるのだが、実にフランクで、気さくにコメントをしてくれる。日本の形式的な美しさを発信しようと思って作った曲ではないし、その点は驚きではあったんだけど意外と評価してもらえる機会があることは嬉しいことだ。

そこでもらうコメントが今までとは少し性質の違ったものが多かった。それは作りあげられたアーティスト像を好むのではなく、音楽をする姿勢そのものを評価してくれることだった。" あなたがやりたいことをこのまま続けていてください、諦めないで "と。

もちろん同じ言語圏の人も同じように応援してくれる人もいる。意見に共感してくれたり、感覚を伝えてくれたり、幸せなことに最高なコメントで溢れている。

ただ、Youtubeのコメント欄や少し距離を離れたコミュニティーでは日本独自の応援の仕方が顕著だ。僕はそれまでずっと当たり前だと思ってたし、自分でも思ってたこともあった。ただ世界に素手で触れたこの感覚によって違和感が明確化してきた。それは『有名にならないで欲しい』というコメントだ。この記事ではその違和感を生んでいる想像力の源について考えてみる。

1.『有名にならないで欲しい』という違和感
2. 日本特有の想像力から考える
  2.1.「他人の物語」を「自分の内面」に置き換え成熟する想像力
  2.2  偶像の愛を必要以上に持つこと
  2.3  独占欲的な身内性
3 最後に

『有名にならないで欲しい』という違和感

『有名にならないで欲しい』売れて欲しいけれども自分の知ってる範囲での活動をして欲しいという、コメントに多少の違和感を感じるようになったのは前述でもある通り『煌めき』のリリース以後である。

音楽をする姿勢そのものを応援してくれているから、社会的な発言もオッケーだし、やろうとしてることに共感しながらコメントをくれる。その反面、日本では社会性のある発言をするとタブー視されるし、リスクがある人は避ける傾向にある。それよりも自分が想像する像に忠実でいてくれる友達のような感覚を求めているんだと思う。自分だけにしか知らない人でいて欲しいというのはその友達、身内性にあると思う。

日本特有の想像力から考える

日本特有の文化の想像力に依拠するものだろうか?国民性という言葉は使いたくないが、その風土にある想像力の構成を考えることによってこの違和感が浮かんでくるのではないかと思い考える。

1.「他人の物語」を「自分の内面」に置き換え成熟する想像力

一つとしてはゼロ年代以降の想像力の在り方が大きく依拠しているのではないかと思う。

活版印刷の時代から映像の世紀に至るまで、人類社会では「他人の物語」を享受することによって、個人の内面が醸成され、そこから生まれた共同幻想を用いて社会を構成してきた。しかし、グローバル資本主義は共同幻想を用いずに、政治ではなく経済の力で、精神ではなく身体のレベルで世界をひとつにつなげてしまった。僕たちはこれまでのようには「他人の物語」を必要としなくなっているのだ。
 たとえばこの視点からは近代文学とは本質的に他人の物語でしかあり得ない小説を、様々な手法で自分の物語として読者に錯覚させる手法の開発を中心とした文化運動だった、と総括することもできるだろう。その役割は20世紀に劇映画に引き継がれたが、今世紀において個人が自分の物語を語ることが日常的になったとき、その使命は(少なくてもこのかたちでは)終わりを告げたと言える。
 情報技術の発展は、劇映画を終着点とする「他人の物語」から、自分自身の体験そのものを提供する「自分の物語」に大衆娯楽の中心を移動させている。『遅いインターネット』第2章

宇野常寛氏の遅いインターネットでもあるようにゼロ年代のアニメ、劇映画に代表される虚構作品は他人の物語を自身の物語に置き換えて自身を成熟させるという構造があった。この成熟の回路に僕は想像力の欠如を感じると言わざるを得ない。他力本願的に自分の成熟を彷徨い歩く構造が出来上がってしまっているのだ。その結果、自身の納得のいく自己像を他者から求め、それをかいつまんで気持ちよく消費するようになってしまったのではないだろうか?当事者意識よりもアリバイや自己欲求を満たすための消費を多くしてきていたのが問題ではないだろうか.

2. 偶像の愛を必要以上に持つこと

この他力本願的に自分の成熟を彷徨いながら探す方法は偶像的な構造を生み出す要因だろう。自身の求めたいものだけを求め、都合の悪いことは目にせず、飼いならすように偶像支配する。この偶像愛が強すぎることが違和感を生んでいる。その人の行動の意味そのものよりも自分の信じたい行動をしてくれることの方が優先的になってしまうのだ。

3. 独占欲的な身内性

自分の想像に忠実である素敵な人を求めるのなら、自分に似た、リスクのない関係性を望むようになる。二人の世界だけに入り込めつような親密な友達のように。これは親近感が湧く、という感覚とは少し違う。同じビジョンを共有しその姿勢そのものが共感できるというものと、リスクがなく理想像にちかいというものは多かれ少なかれ性質が異なる。前者は姿勢そのものを指示しているが後者は独占欲的な身内性の意味合いが強い。自分だけしか知らない人でいて欲しいというのはその友達、身内性にあると思う。

最後に

コメント自体とても嬉しいことだし、最高なんだけれども、この偶像の感覚と「自分の物語」を生きるための「他人の物語」といったような様々な問題を孕んだこのSNSの矛盾に直面する機会を『煌めき』は与えてくれた。そして何よりコメントをしてくれた皆様のおかげで新たな違和感に気づけた。この問題は抽象的な意味合いで、日本の想像力の構造の問題点につながっていいる。また自身の中でそういった感覚が明確化したら共有したい。


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