真っ白が真っ黒に

何もない、真っ白な紙が文字で埋まっていく。
私はこの光景が好きだ。この過程が好きなのだ。
生まれ落ちたもの。それがどうなって行くのか。
興味が有るときと無いときの両方がある。

愉しく、心踊る文章を書いている時。
前回投稿した『プリンとゼリー』でも書いているが、私の中では駄文である。
自分で生み出しておいて何を言っているのかと思われるかもしれないが、自身の駄文がその後、どうなって行くのかには興味がない。

何故か?

生みの苦しみを味わっていないから。
この一言に尽きる。生みの苦しみを味わったものに関してはその後、どうなって行くのか興味はある。
《興味はある》だけなのだが。
自分の生み出したものについての執着が無いのかもしれない。自分の生み出した作品に執着がなく、固執することもないので、シリーズものを書くと言うのが最も過酷な事なのだ。新しい設定で、新しい文章を書くことはとても有意義な時間を過ごす事が出来る。他の物書きの方々はどうなのだろう?

ま、他の人は他の人。私は私。
他の人は私ではないし、私は他の人ではないのだから。今回の投稿についても、書きはじめから愉しく、心が踊っている。

あぁ、これは駄文なのだ。

そう思うと、思い付いたことを書いて行き、終着点が見いだせなくなるのはいつもの事。
「この話、どうやって締めようかな。」
なんて思いながらも思いついたことをただ、ただ並べていく。言葉を並べながら、頭では締める事を考えているこの時間はまた前述の愉しく心踊るのとはまた違う愉しさがある。《締める》を意識したその瞬間から最後を結ぶ言葉を探している。

他の人はどうやって物語を書いているのかな?

やっぱりラストシーンを先に考えて終着点に向けて物語を走らせて行くのだろうか。あるいはもっと緻密に綿密にメモやストーリーの裏ストーリーまで考えて台詞等を言わせたりしているのだろうか。
私には出来ない書き方。それを出来る方は本当に凄いと思う。と同時に本当に苦労して考えて設定やストーリーや台詞を並べているのに簡単に読み飛ばされてはさぞ、悔しかろう。

出したい人物を出したい時に出し、言わせたい台詞を言わせたい時に言わせる。物語の集束など全く無視した展開、思いつきの連続で書いていき、最後の最後が最後まで決まらないのが私のスタイル。

何もない、真っ白な紙はどのくらい真っ黒に
なったのだろうか。

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