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拝啓、ゴーン様。#dearGhosn

拝啓、ゴーン様。

僕にはあなたの気持ちが少しばかり理解できる。それは決して元日産会長としてのあなたでもなく、ルノー会長としてのあなたでもなく、容疑者としてのあなた、厳密に言うと「勾留中のあなた」の気持ちである。


未決勾留者の気持ちについて論じていく。ゴーン氏をはじめ逮捕された人間の気持ちや境遇を知りたいモノ好きであれば、以下参照願いたい。はじめに言っておくが、僕が経験したのはあくまで警察署内部に存在する留置所であり、拘置所ではない。そのため、この記事に綴られている暮らしより数倍過し辛い環境にゴーン氏がいるという理解で読み進めていただきたい。また、僕の場合とは少々、いや、だいぶスケールが違うかもしれないがそこは悪しからず。


さて、もう塀の中のシステムには慣れただろうか?


面会をはじめ外の世界との媒介者は弁護士と“担当さん”だけであろう?初めはこの担当さんの存在をなんと呼ぶべきか迷ったのではなかろうか。留置所の中では誰も自発的にこちらへ情報を提供してくれるわけではない。そう、全てが事務的に無機質に一方通行なやりとり、それが留置所。黙っていても情報がタイムラインに流れてくるような外の世界とは一線を画している。いいね!もシェアもクソリプも炎上もない。その一日に数回とも無い担当さんとのやりとりの中で、あまりに事務的で体温の感じられないコミュニケーションに、そもそもこの人に問いかけをするべきなのか、担当さんにこの問いかけを理解する能力はあるのか等、様々な思いが脳裏を過り、コミュニケーションを自由に採ることができ、相手のレベルを取捨選択できた外の世界がひどく懐かしく感じてくるはずだ。このように日常生活面での疑問(洗顔をして良いか、本を借りても良いか等)を問うことへの戸惑い、誰に何を聴いたら良いのか分からないという新卒レベルの悩みを格子越しに抱いている様子が容易に想像できる。おそらく、周りの勾留者が読んでいる声を見聞きし、見よう見真似で「タントウサン」と呼び、特異な塀の中の暮らしに同化していったことであろう。


月並みな配慮だが、食事は口に合うだろうか? 


愚問である。留置所の中では味覚など無力に等しく、ただひたすらに後悔や自責、あるいは真に無実であれば憤りの念を噛み締めながら、これまでにないくらい苦い飯を食らっていることであろう。俗に言う飯が臭いわけではない。裸足で居室の畳の上に直に並ぶ食事を食べる、その実情が辛く、この卑しさを比喩するのに最も適切なのが“臭い”という形容詞なのだ。無論、朝・昼・晩で出される食事はろくに喉を通るわけもなく、優に数キロのダイエットにも成功したのではなかろうか。食事時には、これまで口にした高級フレンチや料亭の和食、回らない高級寿司の味を思い出しながら、あるいは、妻の作る料理、家族で囲む食卓の様子をイメージしながら留置所の飯で腹を満たしているのであろう。恐らくこのときほど、家族で食べる簡素で温かみのある飯ほど尊く、慈しみたい衝動に駆られるものはないだろう。やがて、時間の経過と共にやってくる“慣れ”にも嫌気がさし、そんな不味い飯すら自然と喉を通してしまう自分の身体を恨みつつも、本能に抗えないことに気づき項垂れていることだろう。


勾留者にとっての魔の時間、日中はいかがお過ごしだろうか。


おそらく並の容疑者ではないあなただ、毎日引っ切り無しに検察による取り調べが繰り広げられているのだろうが、この国の休日たる土・日はひどく時間を持て余しているはずであろう。休日は司法も動かない。故に保釈や勾留期限というものも週末を跨いだ時点で週明けに先延ばしになるのが基本だ。あれ程までに待ち望み、楽しんでいた土曜日や日曜日なのに、留置所の中では悪魔とも言える程、永遠の様な時間に様変わりしてしまうわけだ。平日の楽しみはやはり読書であろうか。ただ一つ気がかりなのはあなたが日本語を読めるかどうかだ。留置所での生活において本は救世主だ。一日の貸し出し本数の制限の兼ね合いから、自身の読み進めるスピードを調整し、暇な時間を生まないように読み進めるような配慮も必要になる。時間が足らなくて足らなくて苦労していた大企業の会長が、逆に時間を潰すことに四苦八苦する気分はどうであろう。隙間時間を縫って没入していた物語の世界は、いまや時間に気を配りながら、遠慮しながら歩を進めていかなければならないのだ。いつ保釈されるかも分からない状況の中、本を読み切ってしまうのは非常につらい。

これまでは日産やルノーという国を代表する企業の舵取りという大役を担い、時間・分単位であなたに会うために来社する社内外の様々な人と会合し、目まぐるしく過ぎる時間の中に身を置いていたのだろうが、今は日に一回の弁護士との面会、家族との面会だけが唯一の楽しみなのではないだろうか。そして面会時間の15分がこんなにも短く儚いものなのかと再認識しているのではなかろうか。これまでのあなたであれば、15分もあれば世界をひっくり返すことができたはずた。ここでは時間の概念も外とは全く異なる。


際限なく続くマイナス思考のループにはもう慣れただろうか。


毎晩翌日の面会に家族はやってくるのだろうか、妻は子供たちはどんな生活をしているのだろうかと思索する毎日を過ごしているのではないだろうか。いわば、これが唯一の楽しみでもあり、生き甲斐のはずだ。冷たく外の景色や人の体温を感じ取ることができない留置所の中で、ただひたすらに瞑想し、自分はこんなにマイナス思考だったのだろうかと疑ってしまう程にネガティブな妄想が頭を巡り、浮かんではまた消える、この繰り返しの毎日ではないだろうか。家族のことを考えると勾留期限の終了や、起訴されてから自分の場合には保釈が可能なのか等、いち早く外に出ることへの思いが錯綜しているはずだ。あれ程までに富と財産を築いたあなたが、今は何も要らない、いち早く家族に会いたい、会うことができれば他に何も要らないと願っているのではないだろうか。


勾留延長が決まるとき、どんな気分だったろうか。


それは、暗闇に一筋だけ垂れる蜘蛛の糸が、今まさにそれを掴もうとし“希望”を抱いた矢先に、無情にも切り落とされるような気持ち。自分の罪に心当たりがある場合は無論、その蜘蛛の糸の脆さが自分の罪故に避けられないものだとも分かっていながらも、僅かな希望を見出してしまった自分がひどく情けなく、あまりにも傲慢で独りよがりな存在にも感じてしまうだろう。一方、これが無実の罪であれば、正に希望の光とでもいえようか、外界への糸口たるこの梯子が外された時の思いは絶望以外の何物でもない。そしてその権力への怒りや憤りは全てを焼き尽くす程の火力を帯びていることは言うまでもない。

真意はゴーン氏のみぞ知ることだが、出所後どのように社会に対して説明責任を果たすのか、あるいは真に無実であればどのように自らに着せられた汚名を晴らすのか、いずれにおいても冷静な気持ちではいられず、拳を強く握らずにはいられないことであろう。しかし、今はそんなことよりも家族に会いたいのではないだろうか。どんな高級フレンチよりも家族で囲む温かいスープのようなものを一番に欲しているのではないだろうか。


留置所での生活は時間という概念を変える原体験になる。


いや、ゴーン氏においてそんな原体験はもはや無用かもしれない。ゴーン氏にとって有史以来ここまで時の流れがゆっくりで、時間の経過を切に願った状況はなかったのではなかろうか。これまで、時というものは惜しむべき存在であったはずだ。時間を永遠に持て余し、面会や読書、瞑想でその空白を埋める状況に自分が居ることはその後の価値観にも大きく影響を及ぼす。これは、出所後における時間の活用概念の転換である。具体的には、気づかない内に目まぐるしく経過してしまうような会社経営者としての時間の過ごし方ではなく、時の経過を丁寧に、真摯に、そのスピードを噛み締めるように歩むことに生きる意味を見出すことに執着するということだ。つまり、一瞬一瞬を噛み締める、自分が最もしたいこと、最も食べたいもの、エゴイズムとも言えるが資本や欲に駆られることもなく、真に幸福な時間とは何かを考え、追求するようになるのではなかろうか。故に出所後において、会社経営というもの自体に興味は無くなってしまうこともあるだろう。どのような裁きがあろうと全てを清算し、そんな時間を送れるようになることを願っている。


このように、留置所は時間と言う概念、生き方を大きく変える場所だ。


正にこの世界とは異なる時間軸の世界、それは宇宙にいるかのような。宇宙に行って帰ってきたような、そんな気分になるだろう。


#dearGohsn


どんな結論であれ、あなたが偉大な人間であることは変わりない。どうか出所後もあなたにとっての、かけがえのない時間を過ごして欲しい。

いや、むしろ僕が好きです。