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No.784 その後の日本は?そして、世界は?

増田れい子(1929年~2012年)さんは、ジャーナリスト、エッセイスト、毎日新聞東京本社の論説委員を務めた方です。

その増田さんが「女のしんぶん」(毎日新聞)編集長でもいらっしゃった時に、国語の教科書に彼女のエッセイが載りました。私は授業で一緒に学び、生徒たちと感想文を書き送ったところ、懇切丁寧なお礼状と著書『インク壺』(暮しの手帖社、1988年11月刊)が入った小包を頂戴し、大変感動させられました。まさか、そんなことがあるなんて、夢にも思っていなかったからです。遠い存在の筆者が、とても身近な存在に変わりました。

その『インク壺』に収められているエッセイの中の一つをご紹介します。
 「洗濯。すがすがしい仕事。しかし、戦争直後の日本では、必ずしも、それはすがすがしい仕事ではなかった。洗いあげるのに必要な石けんが極端にとぼしかった。あのころ、女たちがそのことでどんなにつらく悲しい思いをしたか。いまでも私はあざやかに覚えている。
 太平洋戦争も末期に近かった。しかし、誰にも戦争はまだまだ続くとしか思えない日々であった。二十一歳になった兄は戦場へ送られて行った。母は無口になり、畑仕事と家事に背を丸めた。家族の洗濯ものをかかえて、母はたらいに向かっていた。それは、母の好きな時間でもあった。
 ある夕暮れ、母の洗いあげた洗濯ものをとり入れながら、ふと気づいた。母の肌じゅばんに汗のにおいが残っていた。洗い忘れたのかと思った。しかし、何度か同じことはくり返された。いつものように、母は、たらいに向っていた。手もとの石けんは、小さくうすく、頼りなげに、あわびの貝の中におさまっていた。
 見ると、母は自分の肌着を洗うのに石けんを使わないのであった。母はなんと不精なのだろうと、とっさに思った。そうして、そのことを母に言った。母は屹(きっ)としていった。
 『お前たちのものを洗うためじゃないか』
母はそれきり口をきかず、洗濯の水しぶきをあげた。
 私の記憶では、戦争が果て石けんが手に入るようになるまで、母はかたくなに、自分のものには石けんを使わなかった。一切水すすぎだけですませていた。いまにして思えば、母はそうすることによって、何ものかにあらがっていたのであろう。石けんを奪ったものと、我が子を戦場に連れ去った権力に対して、しぶきをあげてたたかっていたのだろうと思う。」

その増田れい子さんのお母さんは、『橋のない川』の著者・住井すゑさん(1902年~1997年)です。明治時代後期の奈良県の、ある被差別部落の農村が舞台です。日露戦争で父を失った兄の誠太郎と弟の孝二が、貧しい生活の中でも母と祖母の優しくも温かい手に守られ素直に成長するのですが、そこは被差別部落であり、いわれのない差別を受け続けます。本当の豊かさとは何か、真の人間らしさとは何か?人間の尊厳や矜持を胸に強くしまいながらも、差別にあらがい、立ち上がる人々の姿を描いた作品です。
 
すゑさんというお母さんの、水しぶきをあげながら洗濯する音も姿も目の前に見えるような文章でした。娘さんのれい子さんが亡くなられて10年、お母さんが亡くなられて25年が経ちました。戦争は、差別は、その後、どうなったのでしょう?


※画像は、クリエイター・れーもんさんのイラストをかたじけなくしました。洗い上げてスッキリした心が透き通って見えるようです。お礼申します。