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私は何者か、561


なにをしたいわけではない。何がしたくないとかいうのでもない。問われたり、請われたり、頼まれれば、さっさと対応して、村上の教えを実行する。村上の教えとは、人のためとか自分のためとかではなく、あるがままを普通に受けいれて、淡々とこなすこと。そんなことを大学の入会式後のガイダンスやら何やらの時に見ず知らずのわたしの提出物を、一緒にさっさと持っていってくれた、ひと、村上さんの、いいよ、ついでだもの。って一言で、若き日のほんまに目から鱗が落ちすぎてしまった経験から由来する。村上さん。初めて会った人なのに、素敵な人だった。それから、わたしも、その教えを実践する。勝ち負け、優劣ではなく、要は、己に克つということである。

わたしは本当のわたしに会いたいという一心でこうして生きているような気がする。何かをするにしても、されるにしても、触媒のようなものがあって、それを待って、それによって、何かに変えられてゆく。触媒はあいも変わらず、其処でじっとしていたり、隠れていたり、ウロウロ動き回ったり。酵素か、アミラーゼか。それが自身ならそれはそれでいいけど。多分そうではなく、多数あるもののひとつであり、また、多数なのである。一人っきりの世界でない限り、こうして、それが、生活するということであろうか。

今日は夕方に不思議な訪問者があった。それも二人。ひとりは、夫の実家の片付けで、わたしには不要となった折り畳みの机やファンヒーターやその他もろもろを、自分の作業場兼倉庫で使うからと引き取って下さったひと。もしも、使う人があれば十分役に立つものだったので、わたしとしてはとても助かった思いだったのに。ピンポーンの音と共に、ビールをワンケース頂いてしまった。それより何より、笑顔が良すぎて、うれしかったー。大人の対応なのか。まだまだ、わたしは甘いあまい。

次は、令和の米騒動とか。うちにたまたま備蓄していたお米を少しでも良いから分けてほしいと。家族のためと。家族。我々は、お互い農家さんと契約しているのだけれど、新米手に入ったら、すぐ返すからって。

んー。

ここで、村上の教えである。

分け給う。

(うまいこと使われてるで。とか。お黙りなさい。)

利、とは、いったい、何ぞや。


後々ののちののちのちその後に胡椒少々塩も少々






遠くで雷鳴。

遠くならいい。



そばには来ないで。

わたしのそばに。


わたしは何者か。


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