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写真でも動画でもなく『言葉』で思い出を

卒業アルバムの話を聞いて思ったこと。

思い出を残す意味での「写真」というものが薄れてきている気がする。

時代が進むにつれて、カメラを持つことが当たり前になってきた。カメラを持つというか、持とうと思わなくても携帯やスマホを買えばカメラは自然と付いてくる。だから、もはやカメラを身につけているようなものだ。その性能はますます良くなっていて、先日発表されたiPhone 11もその高性能カメラを一つの売りにしていた。きっと今後も性能の拡大というのはしていくのだと思う。

カメラを持つことが当たり前になったと同時に、写真を誰かと共有することも当たり前になった。SNSの広がりと共にその文化は広がっていった。写真を撮って仲間に共有したり、赤の他人にも共有することがもう普通のことだ。動画もリアルタイムで共有できてしまうし、24時間だけ誰かと共有するなどという面白い仕組みをも現代は作った。

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21世紀に入った当初の人たちは今の時代を見てきっと驚くだろう。

かつてカメラは一部の人が持つもので、なおかつある特定のシチュエーションでしか使わなかった。高性能のカメラは写真屋さんが持っていて、家族写真とか学校の記念とか行事とか、そういう特定の状況で写真を撮っていた。デジタルカメラは小さくて扱いやすいため、家族がいる人たちによく買われた。子供の成長や家族の記録など、目に見える形で残すためだ。小学生の頃の僕たちは修学旅行の時にインスタントカメラを買って使った。キリキリ、パシャり。非日常であるカメラを使うのは何か特別で楽しくて、でも子供の僕たちが使い慣れているはずもなく、そのせいで写真を現像してみれば少し指が入っていたりした。

それこそ「思い出」を残すために持っていくのがカメラであった。

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カメラの普及とSNSのシェアする文化の拡大というのは思い出としての「写真」を大きく変えた。

カメラを持つ→写真を撮る→SNSでみんなにシェアする

この一連の流れが一つのエンターテイメントとなった現代。別に思い出を残そうという意識がなかったとしても、写真を撮る。それが当たり前で、そして誰しもが、自分を含めた誰しもの写真を持っている。そんな時代に卒業アルバムを作ろうという話になると、アルバムの作成者側はみんなのカメラロールを頼ることになる。

「卒業アルバムのために思い出の写真を集めます、みなさんこのファイルに共有してください。」

いとも簡単にそんなことができてしまう。みんなは一斉に思い出の写真を卒業アルバム専用の共有ファイルに入れていく。集められた写真の中には、当然どこかのSNSでシェア済みの写真もあるのだろう。実際の集められた写真を見ていないからわからないけど、もしかしたらほとんどそがのようなシェア済みの写真の可能性もある。それらを一冊にまとめた時、その卒業アルバムはというのは「思い出」としての特別な機能を果たすのだろうか。

どこか違和感を感じなくもない。でも、すごく不快という感じでもない。

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その点、思い出を残すツールとしての『言葉』は昔から形を変えていないように思える。思い出は人々の写真に写っていない部分の方が圧倒的に多いはずで、各々の頭の中に何か残っているものが必ずある。その思い出の見る人が違えば、捉え方が違うのも当たり前。だからひとつ共通の思い出を切り取ったとしても、言葉にしてみれば見える景色が少し違ったりする。その人の書き方や表現の仕方でもまた、思い出というのは少しずつ形を変える。

僕が卒業アルバムよりも卒業文集を好むわけはそこにある。

卒業アルバムの写真はみんな共通かもしれないけれど、文集にまとめられたみんなの文章はそれぞれがバラバラの個性を持っている。思い出のそれ自体、思い出の残り方、それに対する感じ方や考え方、思い出をどう表現しているか、それらが全て異なる形で書かれている。個人の価値観が出ざるを得ない、だから読んでいて面白いし、自分のためにもなる。

思い出を書けば、その人の周りの人や団体への思いも一緒に見えることがある。そういう思いを込めて書くのが文集だから、その思いは自ずと滲み出てくる。写真では絶対にのぞけない一面が、文章では見えてくる。

だから、僕は仲間と思い出を残すならぜひ文章でも残しておきたい。

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学校を卒業する際に文集で思い出を残しておけば、振り返って読んでみた時にきっと何か思うことがある。自分の文章を読んで「自分はこんなことを考えていたのか」とか、誰かの文章を読んで「あいつはこんなことを考えていたのか」とか、忘れかけていた自分の価値観やタメになる相手の価値観は、知らないだけで「今」の自分を形成する一部であったりする。もしくは、新しい発見があったりする。

それに、人間は忘却の生き物だ。だから、過去の自分がどんなこと考えていたかなんて残念ながら忘れてしまうものである。それは変えようのない事実で、写真だけでは如何しようも無い部分でもある。その瞬間に記さないと、消えていく思いや考えが僕らの頭の中にはたくさんあるわけで ––– 。


だから僕は今日もnoteを書く。

2019.10.17
おけいこさん

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