仏教思想のメインは、「中道」。 中道は、平均値ではない。 この世のなかは、さまざまな縁起が動きつづけて成り立っているわけで。 きのうと今日では周囲の状況がまったく同じということはないので、探るべき中道も、違う答えになったりする。 こちら側から見れば白に見えても、逆の立場に立ってみると灰色かもしれない。 あると思ったのにない。ないと思ったのにある。 善と思ったが悪だった。悪と思ったものが善だった。 このnoteでは、いろいろな角度からものごとを見る練習をし、常識にとら
頼んでもいないカルト系教団発行の新聞が新聞受けに入っていました。 見出しから本文まで、同系他派や同系伝統仏教教団の批判や否定の言葉であふれていました。 他の選択を否定するのはカルトキリスト教にせよイスラーム教にせよ仏教にせよ、教祖の教えに立ち還るならば、「他を否定しない」のが原則。 神のみを信ぜよ、と言われたとして、他宗の神と自分の信じる神とが「違うものである」と認識するのは愚者の発想です。 信ずる神が、「神はひとり」とおっしゃっている限り、他宗の神は姿や名を変えただ
ゲーム廃人の息子の先行きを懸念する親世代息子が夜な夜なパソコンに向かってゲームばかりしていて心配だ。仕事はいちおうしているが、私が死んだあと家業の管理や、老後の生活をちゃんとしていけるのか…… 60代の顧客から、そんな声を立て続けに聞いた。 じつは私も、ライター時代は『ゲーム批評』誌のレビューを書いたり、ときには攻略記事も書いていたゲーマーなので、自分で言うのもナニであるが、そもそもひきこもりゲーマーは(※)、集中力と創意工夫と目標立てて実現しまくる能力の塊なのだ。 ※冒
国家経済の論点がいつも、「自由化か、保守化か」の二択になってしまうところにギモンを感じる。 消費経済(日用品、家電など)と、精神文化(年に一度の温泉旅行、1点ものの調度品や器などこころを満足させる品)とで物事を分けて考える必要が あると思う。 経済にだって〝中道精神〟が必要両極の〝どちらか〟に決めてしまえば楽なのだ。 細かく場合分けして考える手間が省ける。権威のある誰かに、右だ! 左だ!と言ってもらえば誰もが楽をできる。政策が失敗したら、「首相のせいだ」「与党のせいだ」
日本のお坊さんはカネの話をよくする。 キリスト教会だと宗務部がお金を管理するから、牧師はお金の話をしないよ ウチの住職はともかく、お金の話しかしないんです 観光寺院は、札束が舞っても生臭くないのはなぜか?お寺にお金を「取られた」と言う人は多い。 だけど観光寺院には、入館料・お賽銭が日々じゃんじゃん入っているけれど、誰も生臭いとは思わない。 お賽銭したぶん、ちゃんとご利益が感じられているからだ。 葬儀や法要でお布施を「取られた」と言っている人は、お包みした金額にみあ
宗教法人(や学校法人)に向けて資産運用教育をするオンラインセミナーの紹介記事が、宗教系新聞の中外日報に出ていた。 寺社が投資に手を出すのはダメなこと?国民の人生100年時代。金利のつかない時代が続き、皆さんの老後を年金だけで支えていくには財政がこころもとない。 ということで、いまや公立高校でも会社四季報を教材に、ダミーの株式運用をしてみる授業があるほど。 60代以下の人は投資への抵抗感も減っているだろうが、お寺の責任役員は70歳代以上の割合が非常に高い。 動画にあると
以前は、寺社詣りには ふだんより畏まった服装で行くべき だから、ジーンズなんてご法度と思っていました。 しきたり通りが正しいとは限らないでも7~8年前にふと、 聖域に入るのに、えたいの知れないケミカルな繊維で行くより、綿100%藍染め日本ブランドの桃太郎ジーンズで行くほうが違和感がないのでは? と考えるようになりました。 都度、観じて中道を探るAだから失礼、Bなら許容ってことじゃないんですよね。 失礼にならないよう、その都度考えて事に臨む、という気遣いが重要なこ
75回目の終戦記念日を前になんで戦争もない時代なのに、ワガママ言うんじゃ? 戦争の傷みが語り継がれないから、また戦争になりそうで心配だ 毎年この季節になると、年長の人から、よくそんなことを聞く。 だけど負傷の様子が目に見える戦争より、企業間あるいは企業内部での熾烈な競争や、見えない差別、言葉の暴力によってからだのなかで噴き出している見えない大量の血しぶきのほうが、じっさいは熾烈だ。 見える傷なら味方の誰もが手を差し伸べるだろうが、見えない傷は、同じ傷みを感じたことのあ
コロナを盾に、義理のつきあいはバッサリ斬られた密を避け、やむをえず直葬・ワンデー葬を選ぶ人が首都圏では急増している。 コロナがなくても、都市部では友人知人を呼ばない家族葬が主流となるなど、葬儀の縮小化傾向は6~7年前から進んではいた。 だが、2020年は新型コロナウイルス感染拡大防止を盾に、それまで義理で呼んでいた地域の重鎮や親戚、僧侶までをも(あくまで、義理でお呼びしていた場合)、一刀両断にするご家族が多数出現。 私のところへも、2月以降3件の葬儀の相談があった。 東
〝裏返してみる練習〟を私が習慣にするようになったのは、いつからだったろう? きっかけをたどったら、KERAさんの演劇ユニット 〜いまや人気ドラマを見ると必ず1人か2人はお見かけする先鋭的集団だった〜 に半年間へばりいて取材したときからだった、てことを思い出した。 その半年間で私は、〝さとる〟は「悟る」じゃなく「差取る」でなきゃダメだし、しかもそれを生きてる限り、加速しながら継続しなきゃ意味がない、つまりKERAさんの笑いの追及は、一遍上人の六字名号とおんなじなんだ、ってこと