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5/5 失われたムー大陸(南洋諸島の古代文化)

第二十六章 インドに学んだキリスト

【重要】
いよいよイエス登場、やっぱり来日していた。

カシミールのレー市にある へミス寺院には、
キリストがユダ国を出て
埃及に 2年滞在して 古代オシリス教を学び

それから、印度に渡来した記録がある
キリストは印度ベナレス市・ラホール市等
主なる都市を巡歴して

ゴウタマ仏教を研究して 更に、
チベットに入って12年間滞在して

ムー帝国の神聖なる書物を学び
教師の資格を取得した。が、

いよいよ帰国せんとするとき
「復活は肉体によるのか 霊のみの復活なのか」で、

師匠達と大論争になった。
碑文を見ると、こう書き記しているー
「人間即ち精霊は再生する
不滅の人間は、聖火であって
その火の上に、家又は束縛される肉体は、
元素を基として組み立てられる。
この束縛されたる家は、

原始的細胞によって作られるが、
生命の電子によって統一結合される。

ある時期が過ぎると、
この原始的的結合は滅び 土に戻り
聖火は自由になる。

ある時期が来ると
原始的細胞の再統合が起き
新しい家が再建され聖火を入れる

原始的であるが故に、
この家はまた 土に戻り 再び解放されて
聖火は自由になる。
そして、これが継続される。」

1910年頃 ロシアの学者により
印度の古寺院に於いて
キリストの肖像と
キリストの書き残した文字
(日本古代の龍文字) を発見した。
これによると、
キリストがチベット(西藏)に滞在中、
日本に来朝して
数年間 神道を研究してこと。その後
ゴルゴタの丘の十字架を遁れて
再び日本に来朝、
百余歳まで治病して、
青森五戸在に(戸来村?)に死去。
と記されている。

※竹内文書と内容が酷似している。 p240

第二十七章 大回紇帝國

注) 回紇(ウイグル)

ムー帝国の植民地中 「回紇帝国」ほど
偉大なるものは無かった
太陽の帝国として、ムー本国に次ぐ
大きなものであった。
その東岸は太平洋に接し、
西方はモスクワ・欧羅巴を通じて
大西洋に及び
北方は北氷洋に及び
南方は

コチンチャイナ・ビルマ・印度・ペルシャ
等に及んでいた。

※太古のウイグルがこんなの巨大な国とは
知らなかった。この頃の反作用で現在 中国
に侵略されているのだろうか❓

真のアリアン族は、この回紇族の子孫である
彼らは大地震で山獄が出来た時、
ウイグルの本国が亡びた時、
生き残ったウイグル人が欧羅巴全体に広がった。
それは最新生期時代である。
スラブ・チユゥトン・ケルト・
アイリッシュ・ブレトン・バスクー等の
諸族は、皆その子孫に属する。

この回紇帝国の最盛期の頃には、
高い山というものは無く、
ゴビ砂漠も無かった。

注) 聖書の大洪水は回紇帝国の大地震の 前に起こった。それは、バイカル湖から、レナ河口に流れて北氷洋上の島々に及んだ。

支那の書物に依ると
BC500年に
「回紇人は白い髪毛を持ち、青い目の民」 と記されとあり
「回紇は色白く、目の色と髪毛とは、
種類があって、
北方の者は青い目をして、髪毛は白く
南方の者は黒い目と黒髪をしていた」
と記されている。
回紇國の統治する主権者は
ムー本國から交代で来ていたと云われる。 ** **

第二十八章 神秘國西藏の由来

西藏(チベット)は昔は回紇(ウイグル)帝国の
一部であったが、
それは造山以前のことで、その頃この国は平地であったが。今日では世界の屋根といわれる大山嶽となってしまった。

住民はナーカルの子孫であるが、三千年前に、波羅門族に追われて印度から入り来ったといわれる。母国ムー帝国の原始宗教と科学とを有している。山の下のブラマプートラ河の支流にある一寺院の石碑には、
「大洪水が東北アジアに起こった時、
回紇の首都は流された。人と書物は滅びた。
それは母国ムーから来たものであった」とある


第二十九章 日本人及び 支那人の起源

日本国は伝説に依ると
クイチェ・マヤ族の一派が
ムー帝国からマレイ群島に来たとある
この移民団は
マレイに暫く居していた後に
北行して新領土を得たのである
それが、日本人の先祖である。

この移民団は日本に到着した時
高い文化を築き上げ教養を楽しみ、地上最高の文明を築いた。
この国の国旗はムー本國から持ってきた太陽の象徴であるこの国は太陽の帝国である。

白人と黒人が違うが如くに
日本人と蒙古人は違う、日本人はムー母国のクイチェマヤの子孫であり、白人種(アリアン)の一種なのである。
日本語にはクイチェマヤ語が40%含まれている

支那の文明は古いといっても
たかだか五千年に過ぎず支那人自身で作ったと云っているが、それは嘘で母国ムー帝国の伝承に過ぎないのである。
孔子の死後三百年後に初めて、
支那の歴史は現れたのである。

第三十章 バビロンの興亡史

バビロンの歴史は
アッカディア人・スメラ人・カルデア人・
セム人・アッシリア人・メディア人・ペルシャ人。当の歴史から成り立つものである。

印度からナガ・マヤ族がユーフラテス川岸に移住したのは、一万八千年以上の太古である。
その後暫くして東北の端で同じくムー帝国から来た民族に出逢った。それは セミチック人であった。

アッカドとはナガ・マヤ語で
「柔らかい湿った土地」という意味

スメルとはナガ・マヤ語で
「平地・平原」の意味

バビロンは別名 カルとも称されて
ナガ・マヤ語で
「太陽の都」の意味

ヘロドトスは云う
「メソポタミアに文明を持ち来ったのは
オーネスという6人の者で彼等は 半人半魚であった。
そして、
ペルシャ湾から上陸した。」とある。オーネスとはナガ・マヤ語で 「短舟に住める者」の意味

古代ギリシャ文書に依ると
スメル人とセム人の最初の
会見模様が詳しく記されている

「セム族の小部隊が河岸に待っていた
彼らは鎧を纏っていた。
7人のアッカド人が舟から上がってきたが
鎧の光るのを見て驚いて河中に飛び込んだ。

そして、水中から首を出して岸の方を見ると、
未だピカピカ光っているので、又 水の中に潜りこんだ。そっと首を上げて見ると、もうその時には 光るものは見えなかった。

この河岸に待っていた鎧を着た武者達は
半人半魚 を見たと、帰って報告した。 」と
いうのである。


第三十一章 ペルシャ帝国の崩壊


回紇帝国の南西部に隆起した
山嶽中にいた回紇人は

回紇帝国の亡びた後に
史上に上がり来った。
それは
8千年〜1万年程以前のことである

彼らは人口が殖えて
もはや山中にいることが出来なくなって
山を下ったものである、

それはBC2000〜1500年頃のことである
彼等は下山するのに「四路」をとった

第1の者は
ヒンヅークシュの隣にいた者達で、
印度からアフガニスタンへ行った者達
もう一つは
カシミールからブンジャブに行った者達であった。
この移動は
BC2000〜BC1800年にかけて

第2・第3の者は
イラン砂漠 ペルシャ湾の北東部の間に
下山した団体があった。(ペルシャ人)

第4の者は
裏海南方のアルメニアとサゴロス山の東との間
の大平地に行った(メディア人)
彼等は先住民スキチア人を追い出して
そこに移住したのである。

メディア人とペルシャ人とは
回紇を通って来た ムー母国の アラヤ族であった
種族・言語・宗教は同じくしたこの二族は、

BC600年に メディア人は山岳帝国を作り
ペルシャ人と対抗する立場となったことは、
ペルシャ史にある通りである。

このメディア人とペルシャ人が
バビロン帝国を最後に支配したもので
数千年間バビロン帝国を支配していた
セム族を追い放したのである。
かくて、
BC538年にバビロン帝国は
ペルシャ帝国に併合されてしまった。
そして
大ペルシャ帝国はBC331年に滅亡した。 了


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