私のお姉ちゃん
私には、3つ年上の姉がいる。
喧嘩はよくしたけど、小さい頃から今もずっと仲が良くて、私は姉のことが大好きだ。
姉は、私のわがままをなんでも聞いてくれた。
子どもの頃から私は食いしん坊で、自分のおやつはさっさと食べてしまい、姉の分まで欲しがった。
母親は私をたしなめていたが、姉は「いいよいいよ」と自分の分まで私にくれていた。
父親に叱られた時も、「○○を怒らないで」といつも庇ってくれて、代わりによく怒られていた。
姉は子どもの頃から内気でおとなしい性格で、小学生の頃に同級生からいじわるをされていた。
当時、姉が小4で、私は入学したてのピカピカの一年生。
姉がいじめっ子に帽子を取られているのを見て、勝ち気だった私はいじめっ子を追いかけ、カメのエサを入れていた瓶で叩いて反撃した。それ以来、小学校ではいじめっ子は姉をいじめなくなった。私のもっとも古い武勇伝である。
姉は手先が器用で、少しやったら何でもすぐに上手にできた。
私は子どもの頃によくポケモンのフィギュアで遊んでいて、それでおままごとをしていた。
当時は今みたいにおもちゃが安くなくて、「ポケモンが食べるごはんがあったらいいのに」と話す私に、姉は、紙粘土と絵の具を使ってミニチュアの目玉焼きやハンバーグを作ってくれた。
激しい喧嘩もあったが、思春期も大人になってからもずっと仲が良かった。
社会人の頃、一時期、姉と二人暮らしをしていた。
私の方が早く仕事に行き、帰ってくるのも早かったので、姉の分もお弁当を作り、その他の家事は分担してやっていた。
姉は結構だらしなくて、当時は片付けができなかったので、家は綺麗にしておきたい私とは度々喧嘩になった。
2人とも平日休みだったので、休日は車を走らせて温泉に行ったり、県外のさくらんぼ狩りに行ったりした。
仕事帰りには名古屋駅で待ち合わせして、夜ごはんを食べてレイトショーを見たこともあった。
覚えているのは、小松菜奈と菅田将暉が出ていた「溺れるナイフ」や、多部未華子と綾野剛の「ピースオブケイク」。私は当時、ジョージ朝倉の漫画が結構好きだった。
母と養父は岡山に住んでいたので、長期休みには名古屋から軽自動車のムーヴで高速を走らせた。
交代で運転していたが、私はいつも大阪あたりの渋滞で寝た。
楽しい二人暮らしは、お互いがそれぞれ結婚するまで続いた。
その後、姉は実家に戻っていた。私は昨年、出産のために里帰りし、久しぶりに一緒に生活した。
姉も働いていたし、私も妊娠中は産むまでつわりがあって体調がずっと悪かったので、一緒に出かけたりはしなかった。
出産を終えて産院から里帰り先の実家に帰ってきた私は、精神科入院を勧められるくらい心身のバランスを崩していた。
ホルモンの影響で10日間くらいうたた寝ですら睡眠が取れず、気が狂ってしまい、家族に「もう精神科に入院させてほしい」と訴えた。
結局、母から「赤ちゃんはあっという間に大きくなってしまうから入院はしない方がいい」と言われ入院することはなかった。
姉は「私も一緒に赤ちゃんの面倒見るから。一緒に育てよう」と言ってくれて、育児に積極的に関わるようになった。
私が睡眠薬を飲んで寝かせてもらってる間、仕事をしながら夜間も育児をしてくれた。
なんでも要領の良い姉は、あっという間に育児を覚えてこなしていた。
息子は姉の抱っこが心地良いらしくて、姉が抱っこすると高確率で泣き止んでよく寝た。
夫は毎週末に里帰り先に来てくれたが、姉が夫に育児を教えるほどだった。
1ヶ月検診が終わり、自宅に戻ることになった時も、相変わらず私の体調は悪かった。
それで姉は、元々辞めるつもりだったとはいえ、仕事を辞めて自宅に一緒に来てくれることになった。
姉は結局、約1ヶ月半いてくれた。
夫は育休が取れなかったので、姉が育児だけではなく、料理や洗濯などの家事もほとんどやってくれた。息子の予防接種にまで付き添ってくれた。
息子にとってはもう第二の母のようだった。
本当にありがたかった。
姉は「私には子どもがいないし、産むつもりもないから、新生児から育児ができて楽しかった」と言ってくれた。
姉が実家に帰る時、寂しくて涙が出た。
二人暮らしをしていた頃を思い出して、姉と一緒に生活するのが楽しかった。
息子がいなかったら、再び姉と暮らすこともなかった。息子にも、感謝の気持ちでいっぱいだ。
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