スキなnoteに惜しみない愛を。
自分のnoteで一番スキなのは、
プロフィール、「スキした記事はほんとに全部スキです」という自己紹介だったりします。
私は、自分のnoteに「スキ」してくれた方のプロフィールをよく見に行くたちなのですが、常にネガティブシンキングなので、
「この人、本当に私のこと(note)スキなのかしら・・・?」と思うこともあり(メンヘラ)、少なくとも自分がスキした記事について、私はスキだぜ!という思いをクリエイターに伝えるためにプロフィールに書いています。
しかし、怠惰な人間のため、twitterなどで推しのnoteを拡散することはほぼなく1年を過ごしてしまいました・・・。
そこで、全部を取り上げたいところをぐぐぐぐぐと我慢して5選まで絞り、推しのnoteに惜しみなく愛を注げる会をひっそり開催します。(順番に意味はありませんが、全体の構成上こうなりました)
1.Official髭男dismが無理だった話/はるゆきさん
もしもTwitterで「〇〇の音楽はダサい」と呟かれて、「何でみんなあんなのが好きなんだよ」というリプが続いたら
「まあまあ、ちょっと待てや」
と割り込んできてくれそうな文章です。
Official髭男dism(以下髭男)がいかに「無理」であるか、もしも髭男がクラスメイトだったら…といった妄想で力説しています。
何かを「好きではない」ことと、「無理」であることは同義ではないんだな、と思いました。記事の中で髭男は「普通のいいやつ」だし、音楽性の否定は一切なし。髭男に落ち度はなし。嫌いなところなんて一切ないけれど、受け付けられない。
というかOfficial髭男dismという“いいやつっぽさ”によって逆に俺の駄目でクソな部分が浮き彫りになるのが辛い。わかりますか。
わかる。わかるわ~。
あの人を見ていると、辛い。辛いと思ってしまう自分が、どうしようもなく情けねえ。あの人も悪くないし、たぶん自分も悪くない。そんな日頃のモヤモヤを、強い言葉ですくい取ってくれる文章です。
ただ、その辺に全部目をつぶって、一方的に相手のせいにしてはいけない、そこは自覚的であれ、と。
Official髭男dismを良いと思えない俺らが悪いんだよ。
最後の一文まで、記事の中で愛称「髭男」を用いず「Official髭男dism」で貫いているところに、筆者の、髭男への敬意と心の距離を感じました。
2.砂丘をたずねて三千里/わたこさん
夏の暑い日に読んだとき、文章は「砂」だらけなのになぜか爽やかな風が首元を抜ける感覚を味わいました。
こちらは、「砂漠にいきたい」という悶々とした欲求を叶えに、筆者が鳥取砂丘に行ったという話。
砂漠、というか鳥取砂丘すら行ったことのない私は、「どうせ太陽じりじりで暑くて汗でべっとりした皮膚に砂が付くやつやろ」という偏見をもって読み始めたのですが、見事にぶち砕かれました。
ちょっと曇った大空、青い海、きめ細やかな砂。これは写真だけでわかる情報ですが、
淡々とした文章と鳥取砂丘で流れる穏やかな時間の描写があいまって、しんとした空間に響く静かな波音が聞こえてきそうです。
中でも、私は砂の描写が一番スキです。
砂を手からこぼしてみると、風に乗って日本海の方へ流れていった。海の近くだけれど砂はとても乾いていて、でも手に取ってみると液体みたいにさらさらと手先から流れていく…
手元に握られた砂にぐぐぐと視点がより、その砂が流され行く方向を見てみると、どこまでも遠い海が広がっている、そんな光景が目に浮かびます。私も鳥取砂丘にいきたい。
余談ですが、私はわたこさんの影響でnoteを始めました。
3.お弁当箱のゆくえ/popoiさん
popoiさんの文章は、いつも私が見逃してしまうような日常を、そっとお弁当箱に詰めて、はい、て渡されて開いてみたらすごく色彩ゆたかだった、そんな風に感じて読んでいます。(私が会社に持って行くお弁当箱は茶色くなりがちですが・・・。)
筆者が、替えよう替えようと思いながら、なんとなく惰性で使ってきたお弁当箱。すごく愛着があるわけではないけれど、通勤で使うバスの椅子に、お弁当箱の定位置がある程度には使っている。ある日、うっかりバスの中にそのお弁当箱を忘れてきてしまったという話。
中身が入っているお弁当箱、このまま放っておいたらどうなるのだろう・・・「お弁当箱のゆくえ」を案じて、筆者がバスの営業所までまた別のバスに乗って取りに行く描写に、思わず「ふふふ」と笑ってしまいました。
ああ、この運転手さんや他の乗客はわたしがバスに忘れたお弁当箱を取りに行くために乗っているなんて思わないだろうな。(だから何)
自分が何か重要なことのために電車やバスに乗っているとき、またはしょうもない目的のために乗っているとき、「周りの人は私が今こんな気持ちで乗っているなんて、わからないだろうな」と思うこと、確かにある!わかる!
惰性ではあるが使い続けてもらい、いなくなってもきちんと持ち主が迎えに来てくれたお弁当箱。
わたしのお弁当箱は運がいいのかもしれない。
使い続けたらいいことあるかな。なんて。
私もとりあえず使っているビニール傘、大切にしよう。
4.【その幸せは「今」証明できなくても】/みくりや佐代子さん
これは私のnoteだから何も臆することなく言うけれど、スキした記事の5回に1回は「みくりや佐代子」が出てくる。みくりや佐代子特集で記事一本書けるわ。スキすぎか。
みくりや佐代子さんの文章は、私の心の奥にそっと閉じ込めておいた感情のふたをちゃんと開けて、ちゃんと叱ってくれたり、肯定してくれます。たまに成仏もさせてくれます。別に私のために書かれたわけではないのに、自分事化してしまいます。
本記事は、周囲から「応援されない選択」をした時に、その選択が正しかったか、自分が幸せになる選択だったのか、それを証明するのには時間がかかるというもの。学生結婚という選択をした筆者が、10年後の今だから思うことを綴っています。
今、この時、この瞬間に「それでいいよ」と認められたい。
だから私たちはネットで検索して似た境遇の人を探したり、私生活を誇張して発信したりする。
自らの選択と違う意見を目にしては、勝手に非難された気になって怒りがわく。
自分で決めたことを失敗だと思われたくないから、必死になる。
心あたりがありすぎて怖い・・・。私のあの時の行動は、そうか、「今のこの選択がベストだよ」と認めて欲しかったんだな。周りにも、自分にも。
でもきっと、そんなもので慰められるような選択だったら、きっと10年後の自分は微笑んでいないだろうな。
「あなたの正しさは今はまだ証明できない」。これは未来に向かうとてもポジティブな言葉。
きっと10年後によかったと思えることを信じて、今日もプログラミング言語を覚えようと思います。
余談ですが、みくりや佐代子さんの著書『あの子は「かわいい」をむしゃむしゃ食べる』を今通勤時間で読んでいます。ドキドキ。
5.あふれるほどの愛なんてあるかバカ/満島エリオさん
最後の最後でタイトルめっちゃぶった切られとるやーん、と言われそうですが、私はこの記事をことある毎に読み返しています。
その度にスキをしたいのですが、スキは1回しか押せないから。押したら押した分だけ増える制にしてほしけど、やっぱり1回の「スキ」を大切にしたいな。
爽やかなプラットフォームに見えるnoteの、ドロドロとした側面を余すところなく書いた本記事。「スキ」を自分のブランディングのように押す人とか、フォロワー集めのためにフォローをするだとか。
私のことは知らなくていい。
私のこと好きじゃなくていい。
私だって、みんなに振りまけるような無尽蔵な愛は持ってない。
私の「好き」は、本当に好きなもののためにだけ使う。
だから、私に対してもそうしてほしい。
あなたがどんな人でもいい。
私は、あなたの文章のみであなたを規定する。
引用が長すぎるでしょうか。でも、たったの数行だと、このスピード感は伝わらないんです。
「作品」をみる時に、作者の背景を知りたがる、いや「作者の背景を知ってみることがよい」という風潮、あるじゃないですか。
それって、ちょっと違うかな、と私は思います。
私は、「作品」と作者は別で評価すべきだと思っています。noteがユーザーを「クリエイター」と呼ぶ限り、私たちが生み出す文章は、一つの「作品」としてたくさんの人の元に運ばれて、それはたくさんの「解釈」がされる可能性がある。私たちは、一度作品を世に出したからには、それを覚悟する必要がある。どんなに批判されても、それを受け止めるだけの責任がある。
私は、筆者のTwitterもフォローしていないけれど、この文章がスキ。
あふれるほどの愛なんてない。
いいから私の書いたものを読め。
満島エリオさんの、「媚びない文章」がとてもスキ。ずっと推す。
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いかがだったでしょうか?私の地の文はふっとばしても良いので、ぜひ取り上げた記事を読んでみてください。今後も不定期で開催しようかな。
おわり
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