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『ちびまる子ちゃん』作者が贈る「家族と愛情」の思い込み批判

一応は人が亡くなった話なのに、こんなに腹を抱えて笑うのをこらえて、さらに笑ってしまったのは初めてだ。


不謹慎な話のようだが、これはさくらももこの才能のせいと、自動車学校で周りに人がいるのに読んでしまった私のせいである。


だが、読者が日常的に感じる「人の死は悲しい」「肉親の死はもっと悲しいと思うはずだ」という思い込みの前提を、さくらももこは問いかける。


それでも、「家族には愛情があるのだから、肉親を笑いものにするなんてひどい」というのなら―


一度さくらももこの『もものかんづめ』を読むが良い。笑いの沼に落ちるぞ。


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コミカルな「祖父」の死


今回取り上げたいのは、さくらももこ著『もものかんづめ』の中の、「メルヘン翁」という話である。


さくらももこと言えば『ちびまる子ちゃん』であり、まる子と言えば「友蔵」おじいちゃんとの仲の良さである。


だが、実際にはさくらももこ自身、肉親のおじいさんに対しては


「祖父は全くろくでもないジジィであった。ズルくてイジワルで怠け者で、嫁イビリはするし、母も私も姉も散々な目に遭った。」(p64)

と「メルヘン翁」の章で述べている。


「メルヘン翁」の章では、その「祖父」が亡くなった(老衰)時のさくらももこの家族の様子を綴っているのだが、これが笑わずにはいられない。

「祖父」は「あんぐりと口を開けた」状態でなくなり、その「バカ面」に

お姉ちゃんは「死に損ないのゴキブリ」のように笑い転げ、

「白いさらし布」がなかったために、盆踊り大会でもらったという「祭」と赤で書かれた手ぬぐいで代用したら、

亡くなったおじいさんの顔は「祭」られたようで、

「めでたいんだかめでたくないんだかさっぱりわからぬいでたち」

だったという。

さくらももこの文章力も相まって、「祖父」が自宅で亡くなってから位牌になるまでの時間が、かなりコミカルに描かれている。


ここまでは『もものかんづめ』本章での話なのだが、「その後の話」という、各章のエピソードのその後についてまとめた章に、「メルヘン翁」についてこのような言及があった。

うちの爺さんは私や私の姉や母に対して愛情がなかった事は事実である。だから、当然私達も爺さんに対して何の思い入れもなかった。(p.216)
"身内だから”とか”血がつながっているから”という事だけで愛情まで自動的に成立するかというと、全くそんな事はない。(p.217)


この言及があったのは、当時「メルヘン翁」が雑誌で掲載された際に、「身内のことをこんなふうに書くなんてひどい」という感想が寄せられたそうで、それに対するアンサーとしてだろう。


なぜこの読者はさくらももこのことを「ひどい」と言ったのだろうか。

「そりゃ、家族の死を悲しんでいないからだろう?」

というのが直接的な理由かもしれないが、では、

なぜ「家族の死を悲しむことは当たり前」とされているのだろうか。

ここには、「家族」=「愛情で結びつく集団」という規範や価値観が、根底にあるからではないかと思う。

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『ちびまる子ちゃん』的家族の幻想


ところで、みなさんは日曜の夜6時、アニメの『ちびまる子ちゃん』から始まって『サザエさん』という流れをどれぐらい見ているだろうか。少なくとも、私は物心つく頃からそれを見ていたし、高校生くらいまでは日曜の夜はそれがおきまりだった。(そして『鉄腕ダッシュ』へと続く。)


『ちびまる子ちゃん』の時代背景は1970年代中盤とされている。もちろん私はこの時代を知らない。『ちびまる子ちゃん』にたびたび登場する「紙芝居屋さん」など、懐かしいどころか「そんな仕事(?)があるのか!」という新発見があるくらいだ。


しかし、それでも『ちびまる子ちゃん』の「さくら家」を見ていると、どこか懐かしい感じや、「家族といえば、これだよね」みたいな感覚を持ってしまう。


だが、『ちびまる子ちゃん』に描かれるさくら家は、「近代家族」と呼ばれる、近代に特徴的にみられた家族の「模範」であって、いつの時代もずっと変わらない家族、「普遍的な家族」というわけではない。

そして、1970年代当時の人々にとっても、さくら家は「理想化された」家族だったと指摘されている(玄武岩ほか 2012)。

さくらももこ自身もまた、『もものかんづめ』で、『ちびまる子ちゃん』で友蔵がまる子をかわいがるのは、自分の理想や憧れが混じっている、と述べている。


では、「近代家族」って何だ?となるのだが、落合恵美子が8つの特徴を挙げている。言葉は少し難しいが、

①家内領域と公共領域の分離

②家族構成員相互の強い情緒的絆

③子供中心主義

④男は公共領域・女は家内領域という性別役割分業

⑤家族集団の強化

⑥社交の衰退とプライバシーの成立

⑦非親族の排除

(⑧核家族)

(落合 2010)

例えば④などは、いわゆる「男は仕事、女は家庭」という規範のことであり、⑦は「家族メンバーはみんな血が繋がっている」、②は、恋愛結婚を経た夫婦、そして愛する子供がいる・・・のような、家族メンバー同士に「愛情」があることなどを想像してもらえれば良いかと思う。


⑧が( )に入っているのは、日本など拡大家族(祖父母と同居しているなど)を形成する社会を論じる場合においてである。

『ちびまる子ちゃん』は祖父母と同居している三世代同居型であるが、家族運営を実際に行うのは母すみれや父ヒロシで、その形態は核家族に近いとされている(玄武岩ほか 2012)。


『ちびまる子ちゃん』の場合、母すみれは専業主婦、子供が2人いて、みな血がつながっていて、ケンカするけど仲の良い家族・・・と、ありふれた家族のように捉えられるが、「近代家族」というカテゴリーに収まる家族でもある。


落合も著書の中で強調しているが、私たちが「家族ってこんな感じだよね」と想像しがちな家族は、

実は限定された時代に見られた限定的な家族像であって、「普遍的な家族」ではないのである。


前述で玄武岩らによる、さくら家が「理想化された家族」であるという指摘は、1970年代においても実際は核家族世帯がほとんどで、三世代同居は当時流行っていたホームドラマの世界で描かれていたものだったという点である。


さらに、父ヒロシは母すみれに頭は上がらない、どちらかといえば母すみれの方が強いんじゃないかという父の家庭内での存在感のなさ。(それはそれでまた好きだが)

それは、家父長制の薄まった家族というものが、ホームドラマの世界で好まれていたことにも通じる(玄武岩ら 2012)。


つまり、1970年代に流行っていたホームドラマで憧れの家族として描かれていた三世代同居の、ほのぼのとした家族像。それが、1970年代を背景とした『ちびまる子ちゃん』で描かれ、本日まで脈々と受け継がれているという状況である。


家族と愛情のイデオロギー

長々と『ちびまる子ちゃん』がいつの時代にもいた家族ではない、と指摘されているのを書いてしまったが、特に着目したいのは「近代家族」の特徴にも見られた、家族メンバーの情緒的つながり、という点である。


「家族」という言葉は、よく「家族愛」、「家族の絆」のように、「愛情」と結びつけられて語られる。

ただ、「愛情」は綺麗ごとばかりで済む訳でもない。

近代家族を支えた装置として、山田は

「家族責任を負担すること=愛情表現」というイデオロギー

(山田 1994, p.65)を挙げている。

なぜ母のすみれは文句を言いながらもまる子が遅刻しないように毎朝たたき起こすのか、それは「愛があるから」ということである。もっと言えば、

「家族のためなんだから、家事くらい不満に思わないでしょう。だってそれが愛情を示すってことなんだから」

ということである。山田は、このことについて

「愛情」は、「相手への依頼」を「相手への義務」に変換する言葉となる。

(山田 1994, p.99)

「愛情」が、家族内で用いられるとき、不満に思うことでもそれが家族への愛情表現だと思えば(思わせられれば)、逆に不満なことをすることで情緒的満足がもたらされる、それが「近代家族」を支えた「愛情」の装置である、ということである。


だから、「家族の死を悲しまないなんてひどい」というのは、「家族には愛情があるはずだ」というイデオロギーから来るものである。だが、その「愛情」の正体は時に家族を縛っているものでもある、ということだ。

例えば親が子供を虐待して殺してしまった悲惨な事件について、

「家族なのにどうして」

というコメンテーターは、家族には愛があるはずだ、それなのにどうして親は子供を愛せないのか、という前提がある。

ただ、ここでその前提がある限り、「子育てはすべて親がすべきだ、だって愛があるから」「介護はすべて子供がすべきだ、だって愛があるから」

という、ケアの問題を家族内に押し込める可能性もある。



冒頭の、さくらももこによる

"身内だから”とか”血がつながっているから”という事だけで愛情まで自動的に成立するかというと、全くそんな事はない。(p217)

という言葉は、「家族なら愛があるはずだ」という価値観に対し、現代に起こる問題にまで発展する重要な問いかけだと思う。


そして、そこに爆笑エッセンスを持ってきて、いとも簡単に表現してしまうとは、恐るべし、さくらももこ。

おわり



《余談》

「家族に愛情はあるはず」イデオロギーを散々批判してしまったが、私自身は自分の家族は好きである。


ただ、いわゆる「普通の家族」と異なるのは、自分の兄弟が腹違いである、ということだ。

この話をすると、人から一瞬驚いたような表情をされるのがめんどくさくて、よっぽどのことが無い限り話していないし、わざわざ話す必要もないと思っている。


でも、自分がこのような心境になるのは、やっぱりいわゆる「普通の家族」的なるものの範囲外に出るように感じているからなのだろうか。


「普通の家族」幻想は、私の中にも根深い。

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参考文献

落合恵美子(2004).『21世紀家族へ 第3版』.有斐閣.
落合恵美子(2001).『近代家族の曲がり角』.角川書店.
玄武岩ほか(2012).「越境する〈ホームアニメ〉 ─東アジアにおける 『ちびまる子ちゃん』の家族像」『国際広報メディア・観光学ジャーナル』 (15), pp.57-77.

さくらももこ(1991).『もものかんづめ』.集英社.

山田昌弘(1994).『近代家族のゆくえ』.新曜社.


★設定されている写真は、さくらももこの地元、静岡県静岡市に言った時に撮影した「富士山サイダー」の看板。

★落合恵美子の『21世紀家族へ』は読みやすくて面白いので、家族研究にちょっと興味あるな~という人はぜひ読んでみてください★

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