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スポーツの本質論

今回は、スポーツについて考える際に必ず考慮するべきだと言っても過言ではないであろう、スポーツが持っている理念について書いていこうと思う。

スポーツはとてもみじかで誰でも評論できそうなものではあるが、だからこそ間違いの起きやすいものである。そのため今回は今後スポーツの問題について考える際にとるべき姿勢に何らかの示唆を与えられたら光栄である。


スポーツとは何か

スポーツとは何か。日本人はまだこの答えに辿りいていないように思える。

日本は古来より弓術や剣術などの武術は存在したが、野球やテニス、サッカーなどのスポーツは存在しなかった。スポーツは日本が開国し、明治の文明開化の時代に外国の文化や技術を取り入れると同時に伝わった。

このことからわかるように日本スポーツの歴史は浅く、日本人はスポーツに出会ってから約150年しかたっていない。近年スポーツに関わる問題が表面化してきたが、これらの問題は日本人がまだスポーツとの関わり方を心得ていないことから来ているのではないかと考える。

そこで今回はスポーツの本質を探り、スポーツの問題を考える際に知っておくべき原理を提供したいと思う。


①Sportの語源から探る

まずは物事の本質を掴む王道の方法として、スポーツの語源を紹介したい。

スポーツの語源はラテン語の

deportare

であり、deはawayの意であり、portareはcarryの意であり、carry(運ぶ)は当時の仕事をさすことから「仕事から離れる」→「気晴らし」という意味になったと考えられている。このことからスポーツを「遊戯」のカテゴリーに含めるスポーツ学者がほとんどである。


②スポーツ社会学者、アレン・グットマンの分類

アメリカのスポーツ社会学者、アレン・グットマンはスポーツを遊戯の1カテゴリーであるとし、

組織された遊戯・・・「ゲーム」
競争するゲーム・・・「競技」
肉体を使う競技・・・「スポーツ」

というように考えた。

これをまとめると以下のようなベン図が成り立つ。

チェスや将棋などのボードゲームをスポーツに含めるという解釈も存在しているが、何より本質的に「遊ぶこと」が根底にあるということは間違いなさそうである。


③遊戯とは何か

ではそもそも遊戯とはなんなのか。オランダの歴史家、ヨハン・ホイジンガは

「遊戯とは真面目ではないもの」

とした上でその特徴を「自由」「非日常性」「没利害性」「時間的・空間的完結性」をあげた。

特に「自由」であるという特徴が最も重要で、フランスの社会学者、ロジェ・カイヨワは

「遊戯が強制されると魅力的な愉快な楽しみという性質が失われてしまう」

と述べた。


このように数々のスポーツ学者がスポーツは遊戯の1つであるということを定義しているのは明らかである。


スポーツが自然発生したヨーロッパ、スポーツを輸入した日本

なぜ日本ではヨーロッパで起き得ないスポーツの問題が起きるのか、という問いの答えはここにあると考えられる。

スポーツはヨーロッパで自然発生し、無意識的に「遊戯」の理念のもと発展し、変化を遂げて来た。

しかし明治期にスポーツがヨーロッパから「輸入」されて来た際に、こういったスポーツの理念までは伝わらなかった。形式的なスポーツのルール、やり方という、いわば中身のない箱のみの状態で伝わった。

だからこそ日本においてはスポーツを再定義する必要があると私は考える。



【参考文献】
中澤篤史(2014). 運動部活動の戦後と現在: なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか, 青弓社

ヨハン・ホイジンガ(2018). ホモ・ルーデンス 文化の持つ遊びの要素についてのある定義づけの試み, 講談社学術文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/406292479X/ref=cm_sw_r_cp_api_i_wJkgEb2B7PRP5

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