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昭和50年を過ぎても我が家が白黒テレビだったワケ

3週間という長期の一時帰国ができることになったので、おそらく10年以上ぶりだと思いますが、新潟の実家に3泊することにしました。ちなみにわたしは友人たちから「実家に24時間しか滞在しないオンナ」と呼ばれています。

キタロウさん

わたしのひいおじいちゃんがキタロウという名前で、わたしが2歳の冬に死んじゃったとき棺桶に入れたことにかんかんに腹をたてたという話を以前書きましたが、その人の話をぶりかえしたいと思います。
うちのおじいちゃんもお父さんも職人気質で肉体派であるのに対して、キタロウさんは完全なるインドア派だったようで、趣味は文筆活動。頭脳明晰で親戚や集落から頼られる人物だったため、息子であるおじいちゃんは気の毒に「爪の垢ひとつも受け継がなかった」とよく言われていました。立派な方だったのだろうと想像します。想像するしかないのは、なにせ、2歳まででは記憶がないのだから。

家族のプライバシーはすべてキタロウの日記の中に

晩年のキタロウさんの日課は、日記を書くこと。それも寝る前に浮かんだことを闇雲に書き殴るなんてことはしなかったようで。まず朝起きると、便箋の線の真ん中にもう1本定規できれいに線を引いてその日の予定表を作ったそうです。便箋には家族全員の名前があり、出勤前の孫と孫の嫁にその日の予定を聞き、息子と嫁にもその日どう過ごすのかを聞き、便箋に書きます。それが日記の下書き。夜になって家族が帰宅すると、その日の出来事を尋ねようやく日記帳に文字を綴ります。
キタロウさんが死んだ後、その子どもたちがやってきて(おじいちゃんを先頭に10人の子どもがいます)父親が綴った数十冊にわたる日記帳を読んだそうです。そこには家族全員の行動がすべて記されていました。プライバシーもへったくれもない家族です。ちなみに2歳だったわたしにつきましては、テレビを見るのを邪魔する、書き物をするのを邪魔する存在として記録されていたようです。残念なことに読み終えた日記は処分されたそうで、いまここにあれば、キタロウの名でnoteにしたためるのに〜。

カラーテレビを買わない家族

昭和30年代にNHKと民放でカラー放送がはじまり登場したカラーテレビは、昭和50年には90%くらいの普及率になったそうです。わたしが生まれたころは、テレビはカラーが当たり前だった時代。しかし、今日知った衝撃的事実は、わたしが2歳のころ、我が家はまだ白黒テレビだったということです。なんと! うちはそれほど貧乏だったという記憶もないのですが、それはわたしの勘違いで、めっちゃくちゃ貧乏だったのだろうか・・・。
お母さんにワケを聞くと、理由はキタロウさんでした。晩年のキタロウさんは寝たり起きたりしていたので、文筆活動をする時間以外はテレビを見て過ごしていたそうです(2歳児に邪魔されながら)。わたしのイメージではインテリなキタロウさん。彼の好きな番組は、意外にも、プロレス中継だったそうで。同じ新潟出身のジャイアント馬場でも応援していたのでしょうか、熱心にプロレスを見ていたそうです。ところが、キタロウさんは”血が大の苦手”ときたもので。カラーテレビになってしまったら鮮血を見ることになる、ということで頑なにテレビは白黒! ということだったそうです。ひ孫のわたしは、医療ドラマの血みどろ手術を見ながら弁当を食べているというのに。ということで、キタロウさんがご存命なうちは、我が家のテレビは白黒だったのです。

このエピソードから、キタロウさんは家系の中核をなす人物で、家族の中でとても大事な存在だったということがわかりました。わたしが2歳の1月、眠くなって横になったまま天国に行ってしまいましたが、その日も何か書き物をしていたそうです。わたしがおかっぱ書房として駄文を貪っているのも、キタロウさんと過ごした2年があるからなのでしょうか。40年以上経っても知らない家族の話がいろいろあるなぁ、と思った七夕でした。


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