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歌誌『柊と南天』第0号、昭和48/49年生まれの会から

いくつか短歌の結社がある中で、塔短歌会は歴史があり会員数が多い結社の一つです。さらにそこから「昭和48年/49年生まれ」の会として発足したのが「柊と南天」。昨年11月発刊の生まれたて第0号をいただいたので、寄せられた5名の方々の歌から一首ずつ選んでみました。(掲載順)

題詠 虎
いつの日か虎になる日を夢見つつ牙を研ぐでもせいぜいトラ猫/乙部真実

トラ猫の身分を嘆く言葉が並んでいるものの、実はトラ猫である自分もよしとしている気がする。トラ猫でいながら、虎を夢見ていることそのものを楽しんでいるんじゃないか。だから読み終えたあともどこかのどかな感じがして、言葉は言葉として受け取りながらニコニコしていられる。

はなびらは縁より傷みはじめたり世界のなにかに触れたる箇所より/中田明子

紙が炎に触れるとパッと燃え上がるのと同じような危うさで、はなびらの傷みが始まる印象を受けた。一番綺麗なときなのに、何かの拍子で完璧な美しさは一瞬で失われてしまう。でも言葉に編み込まれることで、その瞬間はずっと残る。たぶんどんな高速シャッターよりも的確に残している。

ンゴロンゴロんから始まる言葉にはスコールが降り始める予感す/池田行謙

「ンゴロンゴロ」はアフリカのどこか、ということだけ知っていた。それは遠い地のこと。でもスコールという景色が足されたおかげで「在る場所」として浮き立ってくる。スコールもまだ降っていないし、予感でしかないのに、しっかり足されていると思える不思議な一首。そういえば、ほかに「ん」がつくものは何だろう。

水底のわたしの影が蹴る水は光の輪となりひろがりてゆく/加茂直樹

どこにも色の情報はないのに、エメラルドグリーンと透明な水色が混じった、それもなぜか海を思う。少し前に置かれた歌に「波」が出てくるからなのか。いや単体でこれを読んでも海だなと思う。わたしではなく、わたしの影が蹴る。わたしの影を見ているわたしは、たぶん水になっている。音はない、静かな水の中。

題詠 鬼
点鬼簿の中なる人の簡潔やわれにさやかに肉の付きゆく/永田淳

点鬼簿は亡くなった人について非常に短く記録されたもので、今見ている自分の肉体がかえって意識される。でもその肉体はいつか失われて、点鬼簿の一行に吸い込まれるのも確実。でも今は眺めていられる自分の身体がある。でもそれも無くなるよな……と無限ループにはまる歌。いつまでもぐるぐるする。肉体で一旦止まってほしいけれど。

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私も同い年ということで「柊と南天」から参加のお声がけいただきました。ありがとうございます。私の歌は前と後の言葉がつながり過ぎるものが多いので、ひょいと世界や概念を飛び越える歌に出会うと「ああ、いいなあ」と羨ましくなります。

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