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自分の年表を一回ちぎってみる

歴史の教科書の巻末にはピッと引き出せる年表が付いている。表は石器時代や縄文時代から始まり、室町や安土桃山時代辺りで「A面」が終わって裏の「B面」に続いていた記憶がある。

教科書の年表をちぎって考えてみる

歴史を学ぶ私たちは、今までに起きた事件と結果を知っている。戦国時代がいくらぐちゃぐちゃでも何十年後かに江戸時代が始まって秩序ができることを知っている。江戸時代の一時に京都で「天誅」が流行していても、それが江戸時代の「末期」に当たっていて、もうすぐ明治維新が来ることを知っている。

でも、年表のそのときを生きていた人はすぐ後ろの時代を知らない。その時代の人々の感覚を共有するために、年表の「その後」を心の中でちぎってみる(コピーがたくさんあるなら本当に紙をちぎってもいいかもしれない)。

応仁の乱8年目の1475年までしか年表がなかったらどうだろう。1500年はまだ未来、1475年で紙は途切れている。1476年、77年に起こる出来事は知るよしもない。乱に巻き込まれている人は「いつまでこんな生活なんだろう」と嫌気がさしているに違いない。

明治になって4年目までしか年表がなかったらどうだろう。年表に明治5年はなく、果たして来年再来年まで明治なのかも定かではない。数年前に急に藩がなくなってしまって勤め先を失った人も多いはず。若い人たちは西洋西洋というけれど昔の暮らしに慣れた大人は「この先一体どうなるんだ」と思っている。

昭和43年までしか年表がなかったらどうだろう。みんなが家電を持ち確かに豊かになったけれど、戦後生まれの人たちが大人に抗い始めて学生運動も始まっている。共産主義や社会主義に興味を持つ人も増えて、これから世間がどう転ぶか分からない。

ちぎったその後、つまり知っている未来を一旦「ないもの」として考えて感覚を確かめてみると、なぜその時代の人がその選択をしたいと思ったのか、なぜこの流れに乗っていったのかを想像できて面白い。

昔からこの遊びを楽しんでいたのだけれど、未来だけでなく過去をちぎっても応用がきくのではないかと思うようになった。

自分の年表をちぎって考えてみる

ベストセラーとなった『嫌われる勇気』では、過去と自分の関連付けについて斬新な概念が提示された。

哲人 過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話はおのずと「決定論」に行き着きます。すなわち、われわれの現在、そして未来は、すべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものである、と。違いますか?
青年 では、過去など関係ないと?
哲人 ええ、それがアドラー心理学の立場です。

岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』ダイヤモンド社より

今はもう当たり前のように「トラウマ」という言葉を使っている。過去の出来事や感情が今の自分を縛り続ける状態は「そうそう、あるよね」という共感をもって捉えられてきた。

しかし、2013年に出た『嫌われる勇気』は「違いますよ」と異議を唱えて話題になった。過去は過去。この先の未来を縛るものではない。

この考え方はさっきの年表遊びで応用したら具現化できるんじゃないか。

何十年か生きてきたなら、その人の年表は時系列で表せる。良いこともあれば悪いこと、思い出したくない嫌なことも全部年表に載っている。でもその年表を「今日」を境にちぎってみたらどうだろう。そして過去のほうを「ないもの」にしてみる。

なにせアドラー心理学では、未来の不安を決定するような過去要素はない。切り落としてみたらすっきりする。手元に残るのは「今日」とその先の何かのみ。

起こってしまったことは取り返せないけれど、だからといって未来まで影響するものではない。それを年表で具現化するなら、この場で「今日」の部分を握りしめているのと同じことなんじゃないか。

このnoteを書くちょっと前、うじうじ考えていた悩みがあった。でもこうやって一度自分の年表をちぎって上手く捨てられたように思う。



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