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あえて、未整頓の文章をアップする

世の中には分かりやすい文章と分かりにくい文章があって、どうしても前者のほうが歓迎されやすい。分かりにくい文章は存在までも禁じられているわけではないけれど、書いたら直されたり「読みにくい」と敬遠されたりする。文章はやはり読まれてなんぼのものなので、なるべく読んでもらおうと思うと「分かりやすさ」に振れてしまう。

私もそういう文章を心がけてきたし、仕事で使う文章はまず意味が伝わらなければ用をなさないものなので分かりやすさにとても気を遣ってきた。ただし、それがどこまで「いいこと」なのか迷うときがある。

今まではずっと頭で考えてきた。でも全然答えが出ないので、手を動かそうと思った。その結果が今回書こうとしているこの文章だ。

いつもnoteにアップする文章は何度か推敲して、間違いがないか探して、その日述べたいことがちゃんと伝わっているのかを確認して公開していた。目的は「分かりやすさ」をちゃんと文章上で実践するためだ。でも「分かりやすさ」のために気にしてきたポイントを全部捨てたらどうなるんだろう。

途中で文章が捻れるかもしれない。漢字の閉じ開きの一貫性が崩れているかもしれない。そもそも何を言っているのか、書きながら分からなくなるのかもしれない。でも一度「えーい、それでもいいや」と貫ける文章を書いてみようと思った。

一文が長くても短くてもいい。どこまでも「が」がつながっちゃってもいい。……ああ、それはやっぱり格好が悪いからやらないようにしよう。最低限自分が「いいじゃん」と思えるところで文章を書いてみたくなった。

その言い訳だけで600字使っている。私としたら画期的かもしれない。

パッと見てもの凄く長い文章を書いている人がいて、読んでみたら本当に呼吸をするように(ある意味ダラダラと)どこまでもつながっていくような書き方をしていた。ああ、こういう方法もあるんだ。

呼吸は一つ一つやり方を振り返ったりしない。さっきの呼吸は間違っていたからやり直す、というのもできない。それと同じくらいのダラダラさと継続性で文章を紡いでいくのも悪くないと思った。実際、量を多く書く人の中には「いちいち振り返ってないからこの文章だろうな」とか「だからこれだけ書けるんだな」と思わせるものがある。呼吸と同じように、振り返らない。推敲しない。

吐き出したものは吸い込めない代わりに、次に吐き出すもので押し流してしまえばいい。どんどん吐け。考えてみれば自分の日記なんてものも、どんどん吐いたものの溜まり場みたいなものだ。中学や高校時代の日記はあまりにも吐き出しすぎて、今振り返って読み直すのは怖い。でもそれだけ正直にレアな状態のモノを吐き出していた。吐き出してすっきりして寝ていた。

大人になったらその感覚はすっかり忘れてしまって、今は「分かりやすく」を筆頭に仕事として「使える文章」ばかり書こうとしている。いや、最初に面白がって書いていたときはそんな感覚は1mmもなかったはずなのに。

たまにSNSがなかった90年代を思い出す。誰も読まないし求められてもいないのに、勝手に書きたいと思って勝手に書いて、勝手にHTMLを手打ちした自作サイトに載せて、それで面白かった。誰かが読んでくれるのは滅多にないボーナスで、感想がもらえたら2日くらい元気になれた。

それを思うと、今はいろいろ贅沢になった。

この文章はもう推敲らしい推敲をせずに、このままアップしてみようと思う。これまでと全然違う書き筋になったら楽しいし、何か外すことができないものがあるならそれは軸になるんだろう。

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