公教育と縁を切る

 日曜日は大阪の江坂にN中の説明会に行ってきた。角川ドワンゴの経営するN高校の中等部だ。正確には中学校ではない。地元の中学校に在籍しながらここで勉強すると中学校で勉強したとみなされる。そんな仕組みだそうだ。

 長男が来年から中学生になるのだが、もう公教育のお世話になりたくない。

 もともと「小学校はまだしも中学校はヤダなぁ……」と思っていたのだが、今回の新型コロナ禍でその不信感は決定的、ダメ押しになった。

 長男が生まれたころ、いくらなんでも12年もたてば日本の教育も変わるだろうと思っていたのだが変わらなかった。というよりおれが卒業した30年前からあまり変わっていないようだ。決められた自転車に乗り、決められた制服を着る。髪の長さやスタイル、押しつけられる「中学生らしさ」。

 新型コロナのおかげで学校組織のいびつさがはっきりと見えたし、それを改善する力は学校にはない。自粛期間中に、学校の先生が生徒の自宅を訪問してプリントを手で配っていたと聞いて、おれのなかでなにかが切れた。

 独立研究家の山口周さんが組織を変えるためにはオピニオン(意見する)かイグジット(離脱する)しかないと指摘していた。オピニオンで治る病状ではないのでイグジットしようとおもう。(イグジット以前に入りもしないのだが)

 そもそもイジメが起きても放置されたうえに責任回避をされる可能性があるようなところに子どもを送り込むという選択肢はおれにはない。「安全・安心」がこれほど好きな日本人がなぜ子どもを安全ですらない場所に入れるのか。学校は多大なストレスを抱えた大人が疲弊しながら働く職場の最たるものだ。志のある先生ほど体調を崩す。早く退職する。元気のいい先生など見たことがない。

 子どもを送り込む場所は最低限明るく快活であってほしい。大人が調子をどんどん崩して希望を失うような場所に子供を行かせるわけにはいかない。さらば日本の公教育。自分の子どもは自分で育てることにする。

 おれは、子どもには好きな色のMTBに乗って多感な時期をすごさせてやりたいだけである。現状を見るにつけ、このささやかな親の願いは加古川市の社会秩序を破壊するとみなされているらしい。

 そんな単純なことすら許されない気色のわるい施設は、日本どころではない、地上からいっさい不要である。

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