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忙しいのは正義か。

忙しいということはいいことだ。これまでの時代、そう言われて来た。

貧乏暇なし、ともいうけれど、忙しいということは仕事がたくさんある、ということだ。フリーであればその分、大小の差こそあれ収入もわかりやすく増える。ただ会社員だと給料制なので、残業代は増えるものの大きなメリットはそこまでない。むしろある程度限られたレンジで、やる気やらやりがいやらを半ば強引に見つけて、その忙しさと対峙することになる。

今も元気に過ごしているが、昭和を生きた父は、それこそ馬車馬のように働きまくった。どんなに体調が悪くても休んでいることはなく、家にいる時間はかなり少なかったように思う。まるで回遊魚のように、一度止まってしまったら死んでしまうような。いま思えばどこか強迫観念に駆られているような節もあったように思う。

忙しいと、人は安心する。自分が必要にされているような気がするからだろう。あるいは、社会に関係している安堵かもしれない。目の前に山積みになっている仕事に集中していれば、ある種、余計なことを考えずに済む。カオスが生み出す一種の平和だ。

でも、それは正しいことなのか?

先日、極めて明るい様子で、職場の後輩からうつ診断を受けたと聞いた。最近かなり多忙で、その反動か酒量が尋常ではないらしく、彼女が心配して診察を受けさせたらしい。上長に相談しなきゃと言ったが、彼は「仕事減らされるのイヤなんで」と笑った。何がそこまで彼を動かすのだろう。
彼に限らず、勤めている職場では何か空回っている印象を受ける。上長たちはもっと自発的にもっと迅速にもっとスマートにと言い、中堅以下の同僚たちは一部を除いて虚無感すら漂っているように感じる。

忙しいことは正義なのだろうか。休むことは罪なのだろうか。
そんなことを考える暇があるのなら働け、と働き者の人々は言うだろうけれど。

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