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【創作短編、のようなもの】

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#短編

男は選んだ。女は迷っていた。

男は選んだ。女は迷っていた。

 なんの用だったのかは憶えていないけれど、その深夜、2人でいっしょにコンビニにいたときのことを憶えている。

 おかしな話なのだけれど、私は店の前のベンチに座っていて、彼は赤い自転車を駐車場でぐるぐる大きな円を描くように運転していた。駐車場には車が1台も停まっていなかった。時間を持て余しているような顔をしたコンビニの店員が、窓の外から見えた。

 彼が、私たちのこれからについてどうするかどうか決め

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賞味期限

賞味期限

 冷蔵庫を開けると、賞味期限まであと5日のキムチがあった。あったというより、見つけたというほうが正確だ。いつからそこにあったのか、いやいつ買ったのか、思い出すことができない。見つけたのが賞味期限前だったことを考えると、それほど前のことではなかったのだろう。

 そもそもキムチというものは、生活の一部である韓国の人たちのように毎日欠かさず食べれば食べきれなくはないが、きちんと食べ終えるのがわりと大変

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小さな指紋

小さな指紋

 ふと目が覚めて、ぼんやりとした頭のまま眼鏡を探す。部屋は暗く、妻も子どもたちもまだ寝息を立てている。10ヶ月になる息子がうつ伏せになっていたのでそっと仰向きにさせて、寝相が悪い4才の娘はなぜか布団の外にはみ出して走るような格好で眠っていた。
 子どもたちを寝かしつけるつもりが、いっしょになって眠ってしまったようだった。布団と壁の間に、ようやく眼鏡を見つける。それをかけて寝室の時計を見る。4時を少

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目の前のランナー

目の前のランナー

 どうやら交通事故にあったらしい。
 らしい、というのは記憶がないからだ。

 でもその時のことは断片的に覚えている。あ、朝薬を飲み忘れたな飲まなきゃ、ということや、自転車の空気抜けてたな入れなきゃ、と思ったことを覚えている。非日常的な衝撃の瞬間には、人はずいぶん実際的なことを考えるものらしい。

 不幸中の幸いとはまさにこのことで、事故による怪我の程度はそれほど重くはなく、肘付近の骨にヒビが入っ

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ひどく静かな家の中

ひどく静かな家の中

 午後3時ちょうどの便で、妻と娘が福岡に帰って行った。

 羽田空港は来るたびに少しずつ新しくなっているような気がする。訪れる人に常に新しい印象を残すためにアップデートし続ける必要があるのかもしれない。新しい店、新しい工事、新しいエレベーター。まるで最新であることが善であるかのように。

 空港までの見送りは、とにかくバタバタしている。バタバタしないように早めに空港に到着するバスに乗っているのにも

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ある女の日常、あるいは忘れられた栓。

ある女の日常、あるいは忘れられた栓。

 水曜日、電車でNetflixを見ながら帰宅した。時間は22時。広告会社の営業としては早い方だろう。打ち合わせばかりの毎日で、帰るころにはその日何を話したか忘れているが、翌朝出社すれば思い出す。便利な脳だとつくづく思う。

 帰り際、近くのスーパーで惣菜とお酒を買う。ほうれん草のおひたし、きゅうりの梅おかか和え、だし巻き卵。缶のハイボールとレモンサワー。あとは家にあるワインや日本酒で充分だ。白米は

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地面は黒く濡れていた

地面は黒く濡れていた

「死ねばいいのに!」
 女はそう言って1人で手を叩いて爆笑していた。IPAのクラフトビールからはじまり、角ハイボールを3・4杯、その途中に僕は合流した。それから赤ワインを2杯、そして今は日本酒を飲んでいた。刺身の盛り合わせやポテトサラダ、あん肝などがテーブルには並んでいた。料理にはさほど興味がないようだった。僕は大して面白いことを言ったわけではないのに、女は1人で笑い出し、1人なのに爆笑していた。

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辟易ちゃん

辟易ちゃん

 私の職場には、「辟易ちゃん」というあだ名をつけられている女性がいます。私自身は仲間内でもそう口にすることはなく、仕事の時などで必要な場合はきちんと(当たり前だけれど)彼女の名字で呼んでいます。

 ともあれ、便宜的にここではあだ名で呼ぶことにします。辟易ちゃんはとにかく職場の誰もを辟易とさせているから「辟易ちゃん」と呼ばれています。そういう名前がついてしまうとそう見えてくるから不思議なものです。

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台風が過ぎた朝の痩せた鳩

台風が過ぎた朝の痩せた鳩

 台風一過、空は晴れ渡っている。真っ青よりもむしろ紺に近いくらいだった。通勤電車が何度かオーバーランして早朝のミーティングに遅れそうなこと以外は悪くない朝だった。車内では意識が高そうなネット記事をいくつか流し読みしていた。それらを読んでいるうちに、どんどん自分のモチベーションという名の風船が萎んでいき、心なしか吐き気を催してきた気がした。ほとんど無意識のうちに降車すべき駅のホームに降り立った。

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大きな黒い鳥の食欲

大きな黒い鳥の食欲

 「おとうさん、トイレ」
 早朝、もうすぐ3才になる息子が僕を揺り起した。僕は唸りながら仕方なく起き上がる。早く起きた息子に抵抗しても無駄なことを知っているからだ。窓の外からは早くも鳥の鳴き声が聞こえる。
 トイレを済ますと案の定、息子は眠れなくなったようだった。まだ寝ている妻と娘を起こさないように静かにリビングに移動する。妻は寝返りを打ったので、もしかすると彼女の意識は起きているのかもしれない。

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38歳の憂鬱。あるいは、忘れられた街路樹の名前。

38歳の憂鬱。あるいは、忘れられた街路樹の名前。

 「あなたは心の病気ではありません。脳が疲れているのです」
 専門医はそう言った。口もとと表情は柔和に見えるが、眼鏡の奥の眼は笑っていない。
 「ずーっと忙しく働かれてきて、脳が疲れちゃったんです。ほら車でもあるでしょう? オーバーヒートのようなものです。公園の脇に車停めてボンネット開けてタクシーのおじさんがよく公園で休んでるでしょう? あのようなものです。脳だって疲れたら休めることが大切なんです

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ある歯科医の秘密

ある歯科医の秘密

 私は夜になると熊になるのだが、それは大したことではない。人は誰しも秘密を持っているものだし、それが私の場合は実は熊であるということだけだ。
 熊にもいろいろいるが、私はヒグマだ。医者にはわりとヒグマ率が高い。コンビニ店員なんかにはツキノワの連中が多い。あとクロネコヤマトとか。昼は黒猫で夜は熊とか冗談かね?と私たちヒグマたちからすると格好のネタになっている。海外の動静についてはちょっとわからない。

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