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明智光秀伝~本能寺の変に至る派閥力学~前編

おはようございます。アルキメデス岡本です。

さて、現在放送中の「麒麟がくる」が残すところ2話となってきました。この大河ドラマは今まで見てきた中でもトップクラスのクオリティで非常に面白いです。

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なんと言っても、日本の歴史上最大の謎である「本能寺の変」を描いているからです。織田信長の家臣である明智光秀がどのような理由で織田信長を討ったのか?

これまで様々な説が研究者の間で語られてきましたが、このドラマではどのような説を選択するのか注目が集まっています。

そこで今回は、麒麟がくる42話「離れゆく心」のあらすじを追いながら、本能寺の変に至る派閥力学~前編を解説します。

■本能寺の変とは

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。

■荒木村重の謀反

天正6年(1578年)秋、明智光秀の次女・たまは織田信長の勧め通り細川忠興の元へと嫁いで行った。

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だが、同じころ光秀の長女・岸の嫁ぎ先の父親で毛利攻めの副将である荒木村重までも信長に謀反を起し、毛利に寝返ってしまった。

光秀は羽柴秀吉と共に説得に向かう。秀吉は村重をまるで恫喝するかのようにきつい態度に出る。それでも村重は応じなかったので秀吉は「愚か者めが!!」と痺れを切らして出て行ってしまう。

■光秀は義昭の元へ

光秀は2人きりになった後で理由を尋ね、村重らの支えになっているのは信長ではなく、追放された将軍・義昭であると悟る。

「全ての争いが公方様に繋がっておる。このまま放っては置けぬ」と光秀は義昭の元に向かう決意をする。

後日、光秀が追放された先の鞆に向かうと義昭は船で釣りをしていた。光秀も誘われるままに共に釣りをする。「1日で1匹でも鯛を釣り、皆で食するのが楽しみなのだ」と語る義昭。光秀は義昭の笑顔を久々に見た気がした。

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光秀は「今一度、京にお戻りいただきたい」と説得する。

だが、義昭もまた「信長がいる京には戻らぬ。だが。そなた一人の京なら考えもしよう」と説得に応じなかった。そんな折、光秀の竿に当たりが来て立派な鯛を釣ることができた。これには義昭も「でかした」と大喜びであった。

■有岡城の戦い

数日後、光秀が陣中に戻ると秀吉が「村重の説得という大事な時期にどこに行っておられたのか?」と問い詰めてくる。光秀は義昭のことは伏せ、「ただ釣りに出ていた」とする。

そのまま村重の説得に向かおうとする光秀。秀吉も共に行こうとしたが、光秀は「そなたがいては話がまとまらぬ、来るな!」ときっぱりと断る。

だが、光秀の説得も虚しく村重は有岡城に篭城したままだった。

その後、娘の岸が離縁を突きつけられ光秀の元に戻ってきた。「荒木家の者として死にとうございました」と涙する岸に光秀は「わしの力が足りぬかった」と謝る。

天正6年(1578年)末、信長は痺れを切らし村重が立て篭もる有岡城に総攻撃を仕掛けることにする。そして、信長は「村重が降伏した後は見せしめとして、家中の者、女・子供を含め全て殺せ」と命じる。

信長の総攻撃に対して村重の軍勢もしぶとく応戦し戦いは1年以上も長引いた。

■家康の誇り

ある日の夜、光秀の元に菊丸が尋ねてくる。主の徳川家康が話をしたがっているという。

その後、光秀は摂津の国にて家康と密会する。「信長様より“自分(家康)の嫡男が武田と通じているという噂がある、殺せ”と命令が下った」と言う家康。

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だが、家康は「例え事実であったとしても自分の子の始末は自分で付ける」と信長の命に従うつもりはないようだ。さらに家康は続ける。

家康「今の信長様は味方を遠ざけておる。公方様、松永殿、荒木殿…」

「これでは天下は1つに纏まりはしませぬ。」

「あまりに理不尽なことがあれば己を貫くほかありませぬ。」

「これには三河の誇りが掛かっております!!」

織田と長らく同盟関係にあった家康の心も信長からすでに離れ始めていた。

■信長の怒り

光秀が信長の元に向かうと上機嫌だった。毛利水軍をすでに打ち破り、そこから物資を得ていた本願寺を落とすのも後一歩のところに来ていたからだ。

光秀は信長に「家康殿の嫡男ことは真でございますか」と尋ねる。信長は「やむえない。これで家康がどう自分を見ているか分かる」という。

村重の時と同じく横暴なやり方に光秀は口を挟む。

光秀「それでは人の心はついて来ませぬ!!」

信長「ついての来ぬならば全て成敗するまでじゃ!!」

光秀の言葉も虚しく信長は吐き捨ててしまう。

信長「頼む、これ以上わしを困らせるな。」

「唯一頼りに思うておる、そなたじゃ。」

「だが、最近は妙な振る舞いをしておる。帝と何を話した。」

信長は光秀を問い詰める。光秀は「帝の言葉は一切口外することはできませぬ」と決して話そうとはしない。

信長「この信長にもか…こうしてわしが手をついて頼んでもか…?」

「言え!!」

「わしに背を向けるのか!!」

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ついに信長は癇癪を引き起こし光秀を扇子で打擲(滅多打ちに)してしまう。光秀は額から血を流し信長のことを睨みつけてしまう。

そして、信長は帝に退位を迫ることにする。武士の金がなければ朝廷も困ると踏んでのことだ。

「殿…」と光秀は悲しげな表情を浮かべ何かを言おうとするが、信長から「帰えれ!!」と追い返されてしまった。

■いよいよ物語はクライマックスへ

本能寺の変に向けて物語が大きく動き出しました。

終盤の炎の中、本能寺の変に挑む明智光秀の前に現れる麒麟の影がより鮮明になりました。やはり、麒麟を呼ぶためには信長を討ち果たすしかないようです。

そして、クライマックスに合わせるかのようにOP(オープニング)も変化しました。

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このOPの演出に【麒麟がくる】のファンは歓喜したことでしょう。

■信長の心を離れた者

足利義昭、松永久秀、帝に加えて42話では荒木村重と徳川家康も信長から心が離れていきました。

もはや光秀と秀吉以外の全ての人物が信長から離れている状態です。おそらく来週に帰蝶…と言うよりも光秀の生き方を示した斉藤道三の言葉が最後の一押しをしそうです。

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■本能寺の変に至る派閥力学~

織田信長は、家臣団の「人材登用」にあたり、出自や門地などにこだわらず、実力主義であったことで知られている。もちろん、累代の家臣であっても、柴田勝家や丹羽長秀のように「使える」人物は重く用いている。しかし、彼らと肩を並べるほどにまで出世した家臣に目を向けると、出自の明らかではない、つまりおそらくは低い身分であったろうと思われる人物の名が挙がってくる。

本能寺の変の直前には、関東・東北方面の外交交渉権をもつ「東国警固」という役割を担ったとされる滝川一益は、近江(滋賀県)甲賀郡の出身の土豪・国衆の出身だ。『甲賀市史』に「故郷を飛び出して信長に仕え出世を遂げた武将だ」と紹介されている。

摂津(大阪府)池田城主・池田氏の一家臣に過ぎなかった荒木村重は、池田家から三好家へと乗り換えたのち、さらに信長に鞍替えした人物。わずか2年ほどで摂津国一国を平定し、その支配を信長に任されるにいたった。

当時、信長の家臣で一国の支配を任されていたのは、越前(福井県)の柴田勝家と大和(奈良県)の塙直政だけだったのだから、トンデモないスピード出世だ。その後、村重は信長に反旗を翻し逃亡。信長の死後は茶人として余生を送ることになる。

さて、こうした信長家臣団にあって、極めつけの出世頭が明智光秀と羽柴秀吉であることに異論はないだろう。

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両者の争いは、「出世レース」などという生易しいものではなく、互いに大派閥を率いての抗争であったと見るのが、本能寺の変研究に20年以上の月日を費やしてきた藤田達生さん(三重大学教授)だ。

その研究の集大成である『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』によれば、光秀・秀吉の両者は、ともに織田家中で大出世を果たすと同時に、それぞれの「派閥」を率いていた。そしてその派閥は利害相反関係にあったため鋭く対立し、その対立こそが、両雄の主君である信長の暗殺という悲劇を招いたという。

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同書では、地域ブロックの平定を任された織田家の軍団長クラスの重臣を「宿老」と呼んでいる。光秀も秀吉も、もちろんこの宿老のひとりだ。光秀は四国地域担当の宿老。対する秀吉は中国地域担当の宿老と位置付けられる。それぞれが派閥を率い、その対立と抗争の行き着いた先が、本能寺の変だと結論づけている。

宿老が率いる派閥とは、どのようなものか。藤田さんは、派閥を構成する5つの要素を掲げている。

(1)婿(養子)や嫁として迎えた天下人(信長)の子供や一門。
(2) 子供の嫁ぎ先・養子先をはじめとする親類大名。
(3) 名字を授けて一族関係を形成する重臣。
(4) 政権から与力として付けられた大名。
(5) 政権への取次関係にある外様大名。

こうした「要素」を少しでも多く手中に収めた部将が、織田家の宿老として大をなしたということになる。

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■まとめ

・信長の天下統一は勢いを増していたが、あまりの傍若無人ぶりに家臣の心が離れいった。松永久秀、荒木村重が相次いで謀反を起こす。その背景には足利義昭の存在があった。光秀は以前の主君、足利義昭の意向を汲み取っていたのか。

・家康の相談を受けた光秀は、なんとか信長の説得にあたるが聞く耳を持たない信長。逆に光秀は朝廷との密会を信長に勘づかれ、その真相を頑なに拒否。信長と光秀の溝は徐々に深まっていく。家康と朝廷の黒幕説が暗に示された。

・光秀と秀吉の派閥抗争は歯列を極めていた。この抗争が本能寺の変へと繋がっていった事が最新の研究で明らかになった。


つづく




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