「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」志賀直哉『小僧の神様』篇⑫(第279話)
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2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
だけどなぜ志賀直哉は、こんなことやろうと思ったの?
『小僧の神様』は、新渡戸稲造への返歌であり、『ヨハネ伝』の再現なんでしょ?
『ヨハネ伝』にはサロメの逸話は出てこないし、ここまでオスカー・ワイルドの『サロメ』を盛り込む必要なくない?
志賀直哉(1883-1971)
それが、あるんだよね。
え?
志賀は自分の境遇を『サロメ』に重ね合わせているのよ。
面と向かって「その結婚は間違っている!」と非難されたことをね。
結婚を非難された?
作家活動を休止していた1914年、志賀は勘解由小路(かでのこうじ)康子と結婚することになった。
康子は、志賀の親友 武者小路実篤の従妹で、貴族院議員だった子爵 勘解由小路資承の娘…
普通に考えて、申し分ない縁談だ。
しかし、康子が再婚だったため、志賀の父直温(なおはる)は猛反対…
この結婚を激しく非難したんだ。
なるほど…
ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスと、サロメの母ヘロディアの結婚を非難した洗礼者ヨハネですね…
へロディアは再婚で、前の夫はヘロデ・アンティパスの異母兄だったから、ヨハネは「この結婚は間違っている!律法に背いたものだ!」と非難しました…
『ヘロデとヘロデヤを非難する洗礼者ヨハネ』
ジョヴァンニ・ファットーリ
二人の結婚を認めなかった父直温は、結婚式にも出席しなかった。
志賀の少年時代から確執続きだった父子関係は、この件で最悪の状態に陥る。
父子が和解したのは、志賀の最初の子が夭折し、作家活動を再開させた1917年のことだ。
そういうことだったのね…
では第八場を見てみよう。
小僧仙吉が「あること」に気付き、Aの正体について考える場面…
この物語において、最も重要かもしれない場面だ…
芥川龍之介『南京の基督』で言うなら…
聞き手の若いライターが、語り手である宋金花の話と、自分が知ってる話の関連性に気付くシーン…
そして『ライフ・オブ・パイ』で言うなら…
聞き手であるライターが、パイの語った2つの物語の関連性に気付くシーン…
空の荷車を引きながら帰って来た小僧仙吉は、Aから御馳走になった鮨の味を思い返しながら、あんなに旨いもので腹が一杯になったことは、これまでになかったと過去を振り返ります。
そして、ふと、「あること」に気付きました。
彼はふと、先日京橋の屋台鮨屋で恥をかいた事を憶(おも)い出した。漸(ようや)くそれを憶い出した。すると、初めて、今日の御馳走がそれに或(ある)関係を持っている事に気がついた。若(も)しかしたら、あの場に居たんだ、と思った。きっとそうだ。
Aが全てを知っていたのは、洗礼者ヨハネの役割を演じていたから…
Aが小僧仙吉に与えた「御馳走」とは、「後から来るけど、先にいた」存在であるメシヤの「お膳立て」、つまりキリストの「前駆」ヨハネによる洗礼のことだった…
だから志賀は文中で「かみさん」と「はかり」だけに傍点を打った…
なぜなら、すべては「神のはかりごと」だから…
ふむふむ。
完璧でしょ?
しかし、それだけではない。
え?
小僧仙吉は「京橋の屋台鮨屋」で「恥」をかいた…
立派な店を構える鮨屋と同じ名前だった屋台に入り、念願だったトロを一度は手にしたが、食わずに鮨を台の上に戻し、何も言わずに逃げ去ったのじゃ…
そして、見ず知らずであるはずのAが、なぜか突然、ありえないような「御馳走」してくれた…
小僧仙吉は、この2つの出来事が関係していることに気づく…
あの時にAが「京橋の屋台鮨屋」に居て、あの恥ずかしい出来事に心から同情してくれたからだ、と思ったのだな…
だから何?
志賀が何を言わんとしておるのか、わからんか?
何をって、どういうこと?
うふふ。まだ気づかない?
朝日新聞の東京社屋は、どこだと思う?
朝日新聞? 築地でしょ?
そうね。
だけどその前は有楽町にあったの。今の有楽町マリオンの場所。
それくらい知ってるわよ。
ビルに「朝日新聞」って書いてあるし、朝日ホールもあるでしょ。
だから何なの?
うふふ。
じゃあ、その前はどこにあったのか知ってるかしら?
有楽町に立派なビルを建てる前、東京朝日新聞が「どこ」にあったのかを…
え?その前?
東京朝日新聞が麹町区、現在の千代田区有楽町に移転したのは1927年のこと…
その前は、道路一本隔てた反対側の銀座に…
「京橋区」の銀座にあったんだよ…
京橋区? そんな区があったんですか?
東京が今の大阪みたいに「東京府東京市」だった時代…
行政区は15区に分かれていた…
「京橋区」とは、現在の中央区の南部にあたる…
そ、それじゃあ…
小僧仙吉が恥をかいた「京橋の屋台鮨屋」って…
京橋区にあった東京朝日新聞のことだ。
デビュー直後の1913年の夏に電車事故に遭った志賀は、秋の間を城崎温泉で療養し、暮れに東京へ戻った。
その際、東京朝日新聞の社員だった夏目漱石から、東京朝日紙上での連載小説という夢のような仕事を依頼される。
しかし、一年前までは全くの無名作家だった志賀は、重圧に押しつぶされて小説が書けなくなってしまい、1914年の夏、あろうことか漱石に連載のキャンセルを申し出て、そのまま休筆してしまう…
「京橋」で、一度は手にした「夢のような話」を、味わうことなく手放してしまった志賀直哉…
だけど、なぜ屋台の鮨屋だったのかしら?
小僧仙吉が恥をかいた京橋の屋台鮨屋は、別のところにあった立派な鮨屋と同じ名前だった。
これは京橋区に小さな社屋があった頃の東京朝日新聞と、大阪に立派な本社があった朝日新聞の関係を指している。
「朝日新聞」という同じ名前だったけど、当時はまだ規模が全然違っていたんだ。
なるほど…
最初は大阪の豊中で始まった夏の高校野球も朝日新聞だもんね…
そして小僧仙吉は、Aが自分にしてくれた「御馳走」の意味を考えた。
一介の秤屋の小僧である自分にAがあそこまでしてくれたのは、京橋の屋台鮨屋での痛ましい出来事をAが見て、同情してくれたからに違いない…
そうでなければ、あんな風に「御馳走」してくれるはずがないと…
小僧仙吉の痛ましい出来事に同情して「御馳走」をしてくれたAとは…
「ある青年の痛ましい経験」に同情して『一日一言』を書いた新渡戸稲造…
この秋負傷して某所で湯治した際に、思いもかけず、ある青年の痛ましい経験を聞いて、急に本書を綴ることを決心した。
(新渡戸稲造『一日一言』序より)
新渡戸稲造(1862-1933)
新渡戸は『一日一言』の序文で、この本を「食べ物」に喩えていたわよね。
日々の教訓となる格言を聞いて、一日の精神的な「食料」とすることは、誰にとっても望ましきことであって、外国においては、種々な形において行われている。
これは読者が朝食後にそれぞれの仕事に就く前、すなわち食膳を離れる間際に、単独で読み、あるいは家族一同とともに読まれんことを期待したからである。
もし読者がこれ以上の長文のもの、あるいは高尚なものを日々読み得るときがあるならば、願わくば本書を捨てて、他のものでその日の糧を得てほしい。
あっ…
おそらく、温泉療養中の新渡戸のもとには、東京から何人もの新聞記者が訪れたでしょうね…
中には当然、朝日新聞の記者もいて、こんな話も聞かされたはず…
世間の期待を集めていた新進気鋭の作家である志賀が、漱石のオファーで東京朝日新聞に書く予定だった連載小説をキャンセルしたという話を…
なぜなら志賀直哉は、新渡戸と同じ三陸出身で、新渡戸の盟友内田鑑三の弟子だったから…
そして新渡戸は志賀の作品を読んでみた。
志賀の処女短編集『留女』や、読売新聞にも掲載された『清兵衛と瓢箪』を。
新渡戸は、ますます志賀のことが心配になり、何か力になりたいという一心で『一日一言』を書くことにした。
序文に「ある青年の痛ましい経験を聞いて」と添えて。
休筆中だった志賀は、なにかのきっかけで『一日一言』を読み、新渡戸のメッセージに気付いた…
困難だらけの人生において道標となる言葉を集めた『一日一言』とは、新渡戸から志賀への「御馳走」であることを…
泣く子も黙る天下の新渡戸が、駆け出しの「小僧」に過ぎない自分にこんなことをしてくれたのは、あの恥ずかしい事件を「痛ましい経験」だと同情してくれたからだと…
そして志賀は、1919年の秋…
ある2つの出来事をきっかけに『小僧の神様』を書いた…
2つの出来事?
まず1つは、救いの手を差し伸べてくれた新渡戸稲造が、新たに創設された国際連盟の事務次長に大抜擢されたこと。
日本はイギリス・フランス・イタリアと並んで常任理事国になり、事務総長の次、ナンバー2のポストが割り振られた。
しかし日本の貴族や有力政治家には、国際舞台で諸外国と対等に渡り合える人材などいない…
だから、長年日本のエリート教育を牽引してきて、名著『武士道』で世界に名が知られていた新渡戸に、白羽の矢が立ったんだ。
なるほど…
これは志賀も何か書かねばと思いますね…
そしてもう1つが、村山長挙(むらやま ながたか)の結婚。
誰?
1919年10月に朝日新聞社社主 村山龍平の長女・藤子と結婚し、村山家の婿養子となった人よ。
朝日新聞の創業家、村山家の婿養子?
志賀は小僧仙吉にこう言わせている。
そう云えば、今日連れて行かれた家(うち)はやはり先日番頭達の噂していた、あの家だ。全体どうして番頭達の噂まであの客は知ったろう?
番頭たちが噂していたのは「与兵衛の息子」でした…
しかも「新聞」を読みながら…
あの「新聞」がヒントだったんだよ。
簡潔な文章を心がける志賀直哉は、無駄なことなど一切書かない。
「与兵衛」とは、長挙の父となった朝日新聞社主の村山龍平のことだった。
「ヨヘイ」と「リュウヘイ」は似てるからね…
なんてこった…
ちなみに番頭たちは、第一場で「与兵衛の息子」について、こんなことを言っとったな。
「やはり与兵衛ですか」
「いや、何とかと云った。何屋とか云ったよ。聴いたが忘れた」
まさか「何屋」と「何とか」って…
その通り。「むらやま ながたか」のことだね。
なんと…
そして小僧仙吉は、というか志賀は、こう結論づけた。
とにかくあの客は只者ではないと云う風に段々考えられて来た。自分が屋台鮨屋で恥をかいた事も、番頭達があの鮨屋の噂をしていた事も、その上第一自分の心の中まで見透かして、あんなに充分、御馳走をしてくれた。到底それは人間業ではないと考えた。神様かも知れない。それでなければ仙人だ。若(も)しかしたらお稲荷様かも知れない、と考えた。
「稲荷」とは…
イエスの十字架につけられた罪状「INRI(ナザレのイエス、ユダヤの王)」のことであると同時に…
『磔刑図』アンドレア・マンテーニャ
自分の心の中まで見透かして、あんなに充分「御馳走」をしてくれた…
新渡戸「稲」造のこと…
「稲造」は「いなつくり」とも読めるから、略して「いなり」じゃ。
やられた…
そして志賀は、さらにヒントを付け加えた。
彼がお稲荷様を考えたのは彼の伯母で、お稲荷様信仰で一時気違いのようになった人があったからである。お稲荷様が乗り移ると身体をブルブル震わして、変な予言をしたり、遠い所に起こった出来事を云い当てたりする。彼はそれを或時見ていたからであった。然しお稲荷様にしてはハイカラなのが少し変にも思われた。
これは、イエスの母マリアの伯母、洗礼者ヨハネの母エリサベトのことね…
イエスを身籠ったマリアが天使ガブリエルの言う通りにエリサベトの家を訪問すると、エリサベトの胎内にいたヨハネが激しく踊り始め、エリサベトはマリアの身に起きたことを言い当てた…
『マリアのエリサベト訪問』
フィリップ・ド・シャンパーニュ
『ルカによる福音書』1:41-45
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
そしてこれは「クエーカー」だった新渡戸稲造のことでもある。
クエーカー?
新渡戸はオートミールを日本に広めた人だったの?
「クエーカー」とは、Religious Society of Friends、日本語では「キリスト友会」とか「フレンド派」と訳されるキリスト教宗派のこと…
だけど世間一般的には「クエーカー(震える人)」という通称で呼ばれている。
彼らが「内なる光」を証言する際、つまり心の中のキリストと交信して「あかし」をする際に、体を震えさせることから名づけられた呼び名だ…
クエーカーは17世紀にイギリスで生まれ、迫害された後、私の故郷ペンシルベニア州に移住した…
そして、その創始者の名は…
George Fox…
ジョ、ジョージ・フォックス?
苗字が「狐」さん?
狐といえばお稲荷様じゃな。
そして「ジョージ」とは「セント・ジョージ」から付けられた名前。
洗礼者ヨハネと同じように地方領主に逮捕・監禁され、最後は斬首された洗礼者「聖ゲオルギオス」のことね。
すべての話が、つながった…
それでは、小説『小僧の神様』のオチ、起承転結の結にあたる第九場と第十場を見ていこう。
最後に志賀は、興味深いことを書いている…
つづく
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