シン・日曜美術館『夏目漱石の坊っちゃん』④
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋
ぼ、僕は腹が減ってるんだ!
ああ!早く天麩羅蕎麦が食いたい!
早く僕らの部屋へ案内してくれ!
はいはい。お二人さんの部屋はこちらぞな、もし…
それにしても、この店には座敷がたくさんあるんですね…
「鷗外の間」の隣は… 「江戸川の間」?
そ、そこは…
「江戸川の間」だと?
どうせ今度は「窓から江戸川が見えます」とか言うんだろう。
江戸川が見えたくらいで誰が喜ぶものか。
・・・・・
しかも江戸川は「江戸」を名乗っていながら、まったくもって江戸の外、下総国を流れている川なのだぞ。
この悪しき前例が「千葉県成田市にある新東京国際空港」や「千葉県浦安市にある東京ディズニーランド」という矛盾を生み出した!
クリス君、そんなこと言ったら千葉県民や江戸川区民に失礼だよ。
こう見えて江戸川は由緒ある川だ。
浮世絵師 歌川広重だって「江戸百景」の一つとして絵に描いているし…
『名所江戸百景 堀江猫実』
歌川広重
だから言ってるだろう!
広重が描いた江戸川河口の村「堀江」とは、現在の千葉県浦安市堀江のこと!
堀江は今も昔も「江戸」ではない!
クリス君は細かいなあ。浦安なんて東京みたいなものじゃんか…
住んでる人たちだってそう思ってるよ。
たとえ住民がその気でいようとも、浦安市民は断じて東京都民ではない!
彼らは千葉県民という十字架から一生逃れられないのだ!
広重だけじゃない。
江戸川は平安時代に書かれた日記文学の古典的名作にも登場するんだよ。
菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の『更級日記(さらしなにっき)』にも…
・・・・・
『更級日記』だと? こいつは笑わせやがらァ。
『更級日記』こそ、「江戸川」や「新東京国際空港」や「東京ディズニーランド」たちのドン、偽装表示文化の総元締めだというのに…
は?
それでは聞くが、岡江君…
『更級日記』の舞台はどこか知ってるか?
『更級日記』の舞台?
更級(更科)じゃないの? 信州、つまり今の長野県の。
このバカチンがァ!!!
ひぃ!
『更級日記』とは、今よりももっとド田舎だった平安時代の千葉県で、華やかな京の都へ帰ることを心待ちにしていた菅原孝標女の日記!
一度も「信州・更級」に行かないどころか、文中に「更級」の「さ」の字も出て来ない!
ええっ?そうなの?
じゃあ『更級日記』の「更級」って、いったい…
ちょっとしたトリックだ!
日記の中で詠われる歌に「姥捨(うばすて)」という言葉が使われる!
その歌が本歌取りになっていて、その元歌に「更級」という言葉が出て来るんだ!
「更級」は「姥捨て伝説」の本場だからな!
姥捨て伝説?『楢山節考』みたいに老婆を捨てる話?
そうだ!
正岡子規と同郷で、子規から俳句文芸誌『ほとゝぎす(ホトトギス)』を受け継いだ高浜虚子も歌に詠んでいる!
更級や 姨捨山の 月ぞこれ
「更級」と「姥捨て」はセットみたいなものなんだよ!
・・・・・
『更級日記』の「更級」は「姥捨て」からの連想だったのか…
だけどそんなの元ネタを知らなければ気付かないよ…
きっと僕みたいに信州更級が舞台だと思い込んでる人は多そう…
・・・・・
おせいさん? どうかしましたか?
さっきから黙ったままですけど…
い、いえ… な、なんでもないぞな、もし…
お、お二人さんの部屋に… あ、案内しますぞな、もし…
(妙だな。あの動揺は尋常ではない。何かを隠しているのでは…)
さ、さあ… 早く行きますぞな、もし…
待ってください、おせいさん。
「江戸川の間」を、ちょっと覗かせてくれませんか?
・・・・・
ふん。どうせ大したことない部屋だぞ。
しょせんは江戸川が見えるだけの部屋だからな。
この俺が障子をあけてやる。そら見ろ!
あれ? 窓がない…
なんだこの部屋は? 江戸川どころか何も見えやしない。
狭いし日も当たらないし、ずいぶんと辛気臭い部屋じゃないか。
電気をつけてみよう。おい、スイッチはどこだ?
これは古いタイプの電燈だよ。
スイッチじゃなくて、電球自体を回してオンオフするんだ。
こうやって…
Can't Touch This !
は?
君は英語もわからんのか?
「そこに手を触れてはならぬ」という意味だ。
え?
Can't Touch This !
でもなぜ触れてはいけないの?
おおかた、オンボロだから感電でもするんだろう。
しかしおせいさんの口からMC Hammerが飛び出すとはな。
こいつは驚いた(笑)
「そこに手を触れてはならぬ」は合っとるぞな、もし…
んだども凶器は「ハンマー」ではないぞな、もし…
凶器?
被害者の体にはロープの跡があったぞな、もし…
そして首には強く絞められた跡が…
つまり死因はハンマーによる撲殺ではなく絞殺…
窒息死ぞな、もし…
おせいさん、いったい何の話をしてるのですか?
昨晩… この部屋で殺人事件があったぞな、もし…
さ、殺人事件!?
こ、この部屋で? いったい誰が殺されたんだ?
近所にある古本屋の細君ぞな、もし…
この界隈の男衆が蔭でマドンナと呼んでたほどの、どえりゃーべっぴんさんじゃったぞな、もし…
どえりゃーべっぴんさんって…
すごいべっぴんさん、つまりデラべっぴんさんということですか?
この外人さんは、ほんに英知があるぞな、もし…
犯人は? もう捕まったんですか?
うんにゃ。まだぞな、もし。
しかしなぜ古本屋のデラべっぴん妻が殺されねばならなかったのだ?
誰かに恨みでも買われていたのか?
うんにゃ。他人様に恨まれるようなお人じゃあなかったぞな、もし。
真面目な性格で、亭主の店もよう手伝っておったぞな、もし…
その旦那さんは、昨晩どこに?
行商に行っておったぞな、もし…
その亭主、怪しいなあ…
だいたいこういう事件は被害者の最も近しい人物、つまり夫が犯人と相場が決まってる…
それはありえないぞな、もし…
ちょうど事件が起きた時刻、亭主は祭の夜店にいたぞな、もし…
アリバイはあるということか…
念のために聞いておきますが、夫婦仲は良好だったのでしょうか?
ええ。ふたりが喧嘩しとるところなど誰も見たことがなかったぞな、もし…
ただ…
ただ?
噂によると…
夫婦の営みの方は… ちょっと…
は? どういうことですか?
言葉を濁さずにハッキリ言ってくださいよ…
いわゆるひとつの…
倦怠期です…
なんだこの歌は? ていうか誰なんだよMCコミヤって?
あんれまあ。デラべっぴんは知っとるのにMCコミヤを知らんぞな、もし?
『ケンタイキ』はMC Hammerのそっくりさん、コント赤信号の小宮孝泰のコミックソングぞな、もし。
コミックソングにしても酷過ぎる。途中からグダグダではないか。
ほんの余興の歌じゃけん、そう目くじらを立てなくてもええぞな、もし。
いいえ。これが目くじら立たせずにいられますか。
「洗濯機です」や「遣唐使です」はまだ許せる…
しかしあのオチは無いだろう…
「九州のお土産は何がいい? 明太子です」
明太子は九州ではなく博多のお土産だ!
四国のお土産に「越後の笹飴を」と書いた漱石センセーよりはマシぞな、もし。
それを言ったのはキヨさんだ!
ねえねえ。今の問題は土産じゃなくて倦怠期だよ。
そうだった。すまん。僕としたことがつい熱くなって…
殺された古本屋の美人妻は、夫婦仲はよかったけれど、いわゆる「夜の夫婦生活」には満足していなかったということですか?
そういう噂ぞな、もし。
それにしても、男女間のデリケートな情報が近所に筒抜けって、どうなってんだ?
この町には「プライバシーの尊重」という概念がないのか?
『坊っちゃん』の舞台 伊予の松山じゃあるまいし…
全身のロープ痕と首に絞められた跡…
そして被害者の夜の夫婦生活は倦怠期だった…
何だかこの2つの情報は、つながっているような気がする…
おやおや。まるで探偵さんみたいぞな、もし。
「みたい」じゃなくて、僕たち探偵学校の学生なんです。
すぐ近所にあるんですけど「深読み探偵学校」って、知ってますか?
おやまあ。探偵さんの卵だったぞな、もし。
そんならこの事件の謎も解決してもらえるぞな、もし。
それにしても変だな…
近所で殺人事件があれば、学校でも噂になるはずなのだが…
だって今日は僕らと木又先生しか学校にいなかったろう?
そんなことよりも、なぜ古本屋の美人妻は、この「江戸川の間」に居たんだろうね…
ここにひとりで居るなんて不自然だと思わないか?
ひとりじゃありませんでしたぞな、もし。
とある男性と「待ち合わせ」だと言ってましたぞな、もし。
だ、男性と待ち合わせ? 夜なのに亭主以外の男と?
怪し過ぎる! どう考えてもそいつが犯人だろう!
なぜ早くそれを言わない!
「待ち合わせ」ということは顔見知り、しかもかなり親しい人物の犯行か…
おせいさんは、その男を見たんですか?
ここで働いてるんだから、見ているはずですよね?
ええ。お酒の注文を取りにいった時に。
急に部屋の暗がりから現れたぞな、もし。
部屋の暗がりから現れた?
うちが部屋に入ったら、古本屋のマドンナが部屋の真ん中で倒れてましたぞな、もし…
起こそうと思って近づこうとしたら、突然、部屋の暗がりから男が…
つ、つまり、おせいさんは…
殺人の直後に部屋に入って、まだ部屋に残っていた犯人と遭遇したと?
そうぞな、もし。
まさにマグリットはんの絵ぇみたいに。
『L'Assassin menacé』
RENE MAGRITTE
犯人はどんな男でした? 顔を見たんですよね?
人相はわからんかったぞな、もし…
首から上をすっぽり覆う白塗りのゴム製マスクをしとったぞな、もし…
おそらく『犬神家の一族』の佐清(スケキヨ)マスクか…
顔見知りの美人妻と密会するのに、そんなものを用意していたということは…
余程のゴムフェチでない限り、最初から殺害する目的の計画的犯行だったわけだな…
顔を隠すということは、誰かに目撃されるのを恐れていたということ…
間違いなく、この界隈でよく顔を知られた者の犯行だね…
服装のほうはどうでした?
白と黒の太い格子模様の浴衣を着てましたぞな、もし。
白と黒の太い格子模様の浴衣?
奇遇にも、こちらの坊っちゃんが着てるものと全く同じぞな、もし。
え?
お、岡江君! 君が犯人か!
ちょ、ちょ、ちょっと待ってよクリス君…
この浴衣は僕のものじゃなくて、この店のものだろう?
僕はさっき初めて着たんだ。
ああ、そうだったな…
この店には、この浴衣が何枚もある…
何人もの客が着るだろうから、それを特定するのは困難だ…
で、おせいさん…
部屋に潜んでいた男が現れて、それからどうなったんですか?
うちが悲鳴を上げようとしたら、そうはさせまいと両手で首をしめてきたぞな、もし。
おせいさんの首を!?
つまりおせいさんも犯人に襲われたのですか!?
せや。そのままうちは意識を失って…
気がついたら救急車の中だったぞな、もし…
ほ、本当か?
見てみい。まだ首に絞め跡が残っとるぞな、もし…
なんと… そこまでクッキリと…
さぞかし強く絞められたんですね。苦しかったろうに…
すみませんでした。そんなことがあったとは知らず、根掘り葉掘り聞いてしまって…
気にせんでもええぞな、もし。
さあ、お二人さんの部屋は、この隣の座敷ぞな、もし…
ん?
どうしたの?
薄暗い部屋の中で古本屋の美人妻が殺された…
体には小さな傷やロープの跡が複数あり、死因は首を強く絞められての窒息死…
夫との仲はいいが、性生活には満足していなかった…
美人妻と密会していた犯人は、おそらくこの界隈の者で、誰かに見られることをひどく恐れていた…
・・・・・
もういいじゃないか。おせいさんに辛い過去を思い出させてはいけないよ。
ここは蕎麦屋…
そして蕎麦屋の女の首にも同じく、絞められた跡が…
すみません、おせいさん…
彼、しつこい性格で…
・・・・・
なんてこった…
僕たちは「江戸川の間」を勘違いしていた…
えっ?
ここの座敷にはすべて人物の名が… 有名な文人の名前が付けられていたじゃないか…
あっ、そうだった!
つまり「江戸川の間」とは…
日本における推理小説の草分け的存在…
江戸川乱歩の間だ…
江戸川乱歩
1894年(明治27)- 1965年(昭和40)
・・・・・
つまり、おせいさんが語った「殺人事件」の話は…
「江戸川乱歩の間」のための演出…
おそらくな。
きっと今まで何人もの客に「この話」をしてきたのだろう。
この「D坂の殺人事件」の話をな…
ディー坂? 何それ?
言っとくが、ダンディー坂野のことではないぞ。
「D坂」とは「団子坂」のことだ。
団子坂?
森鷗外や夏目漱石が住んでいた駒込・千駄木の?
その通り。
東京大学や東京藝術大学からも近い文京区千駄木の団子坂周辺には、多くの文人が住んでいた。
まだ駆け出しの小説家だった江戸川乱歩は、その地を舞台にして「名探偵 明智小五郎のデビュー作」である『D坂の殺人事件』を書いたんだ。
なんてこった…
おせいさんの話が嘘だったなんて…
この部屋で殺人事件など起きてはいなかったのだよ…
すべては僕らのような一見客を怖がらせるためのホラ話さ…
・・・・・
だけど、おせいさんの首にあった絞め跡は?
いくら演出のためとはいえ、あそこまでやるかい?
もしかしたら本当に…
ふっふっふ…
えっ?
やっぱり本当なんだよ!
おせいさんは何者かに首を絞められたんだ!
ま、まさか…
D坂の蕎麦屋の女と同じように…
can't touch this…
これに触れてはならぬ、ぞなもし…
・・・・・
?????
さあ、お二人さんのお部屋に案内しますぞな、もし…
どうぞこちらへ…
つづく
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