私にとって生きること

私が生まれて記憶があるのは小さな二階建ての小さなアパート
いつもきていた、借金返せ
「ドンドン いるんだろう!!」
ドアの外で聞こえる借金取の怒号
家族は父と兄二人と母と私の5人家族

いつも生活はギリギリだったけれど父のギャンブル依存症はやめられなかった
食事代も奪って父はギャンブルに行ってしまう
ギャンブル依存症なんだろう
お金が無くなると母に殴るけるの暴力、当時6歳だったけど覚えてる

そんな生活から逃げるために、母と兄3人で家を出ることにした
夜中ゴミ袋に必要な物をつめて、家をでた。

小2の時母は自殺未遂をする、それから私たち兄3人は親戚の家で生活することになる。
親戚家族はよくしてくれた、丁度同い年の子供がいて、いつも遊んでいた

それから小学校3年の終わりに母は迎えにきた。転校することになる。
知らないおじさんが迎えの車にいた。母と再会できた喜びでそんなのはどうでもよかった。
それからは、離れた時間を埋めるように色んな話をした。

中学生になった。母はスナックを経営していた。顔を出すとお客さんがお小遣いをくれた
いつもそのお金でご飯を食べていた。

中学1年の冬母は私や兄を置いて出て行った。別れの挨拶も手紙もなかった。
すぐに祖父母の家に預けられる。たくさんのおかずで迎えてくれた。
暖かった、やっと平凡に暮らせると思った。

中学3年のときは私は私の性別違和について祖母に話した。
帰ってきた言葉は「変態」だった
その日はお布団でたくさん泣いた

学校の先生は理解してくれて、一緒に専門の病院を見つけて連れて行ってくれた
やっと権威ある先生に出会えて私が性同一性障害であることがわかった。

高校は祖父母から避けるように寮生の学校に進学した。でも早くホルモン療法しないと
自分自身がどんどん男になっていくと思って、15歳の終わりくらいに高校中退というか
脱走して、女の子として生きていくことにした。
それからは早かった、性同一性障害の診断書をとるために、精神科に通い取得する
その途中で、いなくなった母を見つけてもらっていた。
すぐに見つけてくれた。
母と再会して母は変わらず接してくれた、女の子の名前に改名するときも母家庭裁判まで付き添ってくれて
一緒に裁判所の人にお願いしてくれた。
その甲斐があって、すぐに改名の許可はおりた。
女の子になった気分だった。
戸籍謄本と改名許可の裁判所の手紙をもって役所へ向かう
これで女の子になれる。面接のときに、名前のことで突っ込まれることはない。

17歳で一人暮らしすることにした。母が暮らすところの熊本の田舎で最低賃金が安いのだ。
もっと高い時給のところで働くために福岡に引っ越した。
18歳といつわって、夜間の時給いいバイトもした。昼間も事務の仕事をした。
何か生き急ぐようにひたすら頑張った。18歳になったとき、求人で見つけたニューハーフ専門のデリヘルへ
応募した。そこには自分と同じ悩みを抱えた人がいた。
お客様と接客しないときは、みんなただの10代~20代の女の子だった。
たわいないお話したりゲームしたり、接客を忘れさせてくれる時間だった。
何度かお店を辞めたりもした。いい男の人ができて辞めた。その人とは長かった
普通の昼間の仕事に戻って、一緒に時間を過ごした。2年半くらいたってからか
すれ違うようになってセックスレスになって、彼氏が可愛い彼女と歩いているのを
たまたま早く上がった会社帰りに目撃してしまった。
逃げるように東京に行き彼氏とは疎遠になり2年半の同棲生活は消滅した。

そして私は自分を傷つけるためにデリヘルの世界に戻った。家で飲まなかった酒も飲むようになった
友達にもらった精神安定剤に味をしめ、病院で最大容量処方してもらい、接客のたびに、お酒と飲むようになって
どんどん壊れていった。「死ななきゃ」、「死にたい」そう思うようになった。
安定剤の量はどんどん増えていく、ある日もうだめだって、度数の高いお酒をコンビニで買って
薬とアルコール中毒で死のうと思った。普段吸わないくせに母が吸っているたばこのセブンスターも一緒に買った
家で死ぬのは迷惑かかると思って近くの公園行くときにバーが見えた。寄ってみた。
「今日死ぬんだ!」明るく言った、みんななんでよーて聞いてくるでも決めたんだ。
テキラー頼んでたくさん飲んだ、気づいたら、警察の保護室だった。
何か警察言ってる、でもそんなのおかまいなし
「殺せよ!」何度も叫んだ救急隊の人も来た、「殺せ」って言った
「男でも女でもない私生きてて意味ないじゃん」
翌朝母が迎えに来た。母は何も聞かなかった、ただ黙ってあたしが話すのを待っていた。
私の頭の中は混乱していた。今日仕事なのに、とりあえず、事情説明してお休みにしてもらった
事前予約も入っていたのに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
母は仕事休んでそばにいてくれた。
うちの家庭は複雑だ。母は2度離婚している。1人目は知らないが、2人目はDV男だった。そのくせギャンブル依存症で母はいつも
金の工面をしていた。ライフラインはいつも止まるし、公園に水を汲みに行くし本当にお金に困っていた幼少期を過ごした。
今は新しい旦那さんと暮らしている。母は働くが夫はほぼ紐状態。なのに母を怒鳴るし、殺してやろうかなと正直思ったこともあった。
まあそんな実家で、休養して帰るときに母は言った。
「お金貸してほしい」とあたしがどういう状況かわかってんのかなと思ったけど貸した。
帰りの汽車でいっぱい泣いた、裏切られたもう信用できないと思った。
母はお金でたくさんの人に迷惑かけてるし、正直家族からも縁を切られている。そんなに困ってるなら、母の新しい旦那が働けばいいと思った。
生きるの疲れた時にただいてくれればいいと手を差し伸べてくれた奈良の男の人がいた。その人と暮らすことになった。
その人との暮らしで私は安定剤を飲まなくてもよくなった。お金の心配事が無くなったからかな。
でも、その人の両親や家族がニューハーフの私を認めてくれると思えず自分から姿を消した。
また福岡に戻ってきて、安定剤を飲みながら昼間の仕事をした。繊細で少しでも注意されると落ち込んだり、周りの人が怒られると落ち込んだりする
そのたびに安定剤を飲んだ、そうすると体制がついて、お酒と一緒に飲むようになる。安定剤も一個の病院で処方できるのは限られているから
服数の病院かけもちして入手した。ある日同じように会社に行こうとすると行けなくなって休みがちになった。行けても途中で早退したり、辞めることにした

でも貯金ないし死のうかなどうしようというときに自立支援センターというのを見つける。電話したら優しい人が面接の予約を入れてくれた。
病院の診断書や家賃がわかる書類を念のため持って行った。そしたら、いろんな福祉制度を紹介してくれて、役所とも繋げてくれた。
役所の人も優しくて、死ななくてもいきていけるって思えた

頻繁に今も死にたくなるけど、一人じゃないから、お薬も飲みすぎちゃうけど、まだ生きてます

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