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そんな読み方もあったのかと私は思わず呻いてしまった:太宰治『黄金風景』

ナオミ・フェイルの「バリデーション」という本を読んで以来、自分の子どもの頃の思い出や記憶とどう折り合いをつけていくかをよく考えます。そして少しずつ、ひとつひとつ、自分の中の記憶や、あのときのこだわりとの和解を続けています。

まったくの余談ですが、私と私の妻(ドロシー)は小学校・中学校の同級生です。私の弟も小学校・中学校の同級生と結婚しました。聞けば妻の両親も小学校の同級生だというではありませんか。恋愛至上主義な世の中にあって、なんと凡庸な、まるでタイムスリップしたような人生の選択をしているのでしょう。


もう半年も前になりますが、ゴールデン・ウィークに猫町倶楽部という読書会主催の「30分で読める短編読書会 太宰治『黄金風景』」に参加しました。

太宰治を若い頃にはそれなりに読んだつもりでいましたが、『黄金風景』は未読でした。30分で読めると銘打たれた通り、短い作品です。

読書会のグループで「主人公が好きか」と尋ねられました。難しい問いだと思います。

魯鈍であることを厭う主人公の気持ちがわからないわけではありません。優れていること、非凡であることは憧れです。

一方で、小説の中の短い記述の中ではありますが、主人公は自分でない何かに憧れ、自分ではない何かを依存し、模倣し、そして何かに急かされるような人生を歩んできたようにも思えます。

だから、正直な感想をいうと、私は彼のことがあまり好きにはなれませんでした。

他律的であることが必ずしもいけないことだとも思いません。私もまた振り返ってみればずいぶんと他律的でした。けれど、彼は私たちとはまた異なる意味で、他律的な人生を送ってきたのではないのかと思うのです。

彼が最後にいう「これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。」という言葉も、小説のタイトルが『風景』と名付けられているように、どこか他者目線のお話にすぎない気がするのです。

勘というのでしょうか。「彼ははまた同じことを繰り返すな」と思わずにはいられませんでした。皮肉な見方かもしれません。でも、私は彼を信じることができないのです。


ただ、これはあくまでも私がそう感じたということにすぎません。そんなこんなを読書会のグループで話をしているうちに、著者の作者としての技巧の話になりました。

前日に行われた短編読書会の課題図書「藪の中」を書いた芥川龍之介の頭の良さが、「作り物の作り方」の上手さだとすれば、太宰の頭の良さは「自分の駄目さを面白く描く」という、「自分の駄目さ加減を客観視する上手さ」ではないかという視点です。

そうこうするうちには「この話、吉本新喜劇」っぽいよねという話になりました。そういわれてみれば、適宜、ギャグを交えさえすれば、このお話、吉本の舞台の脚本として十分に成立しそうです。


たしかに肩を蹴った筈はずなのに、お慶は右の頬ほおをおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。

「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」
うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういった.

「おまえ、蹴ったのそこちゃうやろ」


折角の太宰の頭の良さが楽しく台無しです。

化学反応には可逆反応と不可逆反応がありますが、物語の吉本化はあまりに危険であまりに楽しい。そしてどうか誤解しないでいただきたい。私は太宰治が好きなのです。

海と山との違いこそあれ、「黄金風景」と「富嶽百景」には通底する憧れと諦観の構造があるように思えます。

太宰治を読むと落ち込みませんかと尋ねられましたが、まったく落ち込みません。それは、中島みゆきを聴いても落ち込まないけれども、松任谷由実を聴くと落ち込むのと似ているのかもしれません。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。