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梅雨の記憶

子どもの頃、雨の日は好きだっただろうか。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

『あめふり』作詞:北原白秋、作曲:中山晋平

そうか、北原白秋の作詞だったのか。

そういえば、小学校の頃は雨の日は傘で少し遊びながら通学していた。水たまりが楽しく、アジサイにはカタツムリがいた。黄色い長靴を持っていて、雨の日は履いていった。最近の子は黄色い長靴を履いているのだろうか。

子どもの頃、大人に叱られると「なんて理不尽なのだろう」と思った。「自分は大人になったらそんな風なことは絶対にしないぞ、自分は今の気持ちを忘れないぞ」と心に誓った。けれど、やっぱり忘れてしまった。

あの頃の自分を構成していた細胞の原子や分子はおそらくもういない。物理的なあの頃の自分はもういない。脳という物理的な機構のメモリ上のオン・オフが、あの頃の自分は今の自分だったのだと信じているに過ぎない。

紙の日記でも電子的な日記でもよいけれど、何らかの記録としてメモリ上に構成されている記憶、それは自分なのかというとそんなこともない。便利になった世の中で電子的な日記を簡単に検索できるが、何を思って書いたのかが思い出せない。書いた記憶はびっくりするほどなかったりする。そんな日が来るとは思ってもみなかった。

子どもの頃、親に「この本を読んだか」と尋ねると、「読んだけれど忘れた」という答えがよく返ってきた。読んだ本の中身を忘れるなんてと思ったが、いざ自分が逆の立場になれば、そういうものだとわかる。

梅雨の記憶は、傘と水たまりとカタツムリと黄色い長靴。。。

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