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連載:コロナ下で考えたい「学ぶということ」#010 学ぶほどわからなくなるということ

 連載も10回目なので、若干振り返りをして、そしてやや「オチ」をつける説明をします。

 私はこれまでに、
①学ぶを切り分けてみること
②知っていること
③知っていてもわからないこと
④話のすじ道をわかること
⑤心からわかるというこ
⑥まねること
⑦結びつけること
⑧きちんと間違えること
⑨めまいをおこすこと

 というふうに、「学ぶこと」について説明してきました。
 長々と9回も書いてきたので、これをがまんして読んでくださったみなさんは、これほど「学ぶ」の種類があることがわかったのだから、「オレはちょっとかしこくなったんじゃないか?」なんて思っているかもしれません。
 そりゃそうです。学ぶことについてこれまで一部しか考えてこなかったのに、今やいろんな区別ができるようになりつつあるのですから。書いている私も、みなさんにそう思ってもらえたらうれしいというものです。
 でもこの10回の区切りにあたって、最後にちょっとイジワルなことを言ってみたいのです。
 本当は、みなさんに「あー、なるほど!よくわかった!」という気持ちになってもらって、メデタシメデタシとしたいのですが、どうしても書いておかなければならないことがあるのです。

 「学ぶこと」の中でも最も大切なこととは、「学べば学ぶほど、どんどんワカラナくなっていく」という感じを確認することです。

 ここを読んで、少なからずのみなさんが「えっ?」と「めまい」を起こしてもらえたら、私のねらいもなんとか当たったということになるかもしれません。

 「学ぶほどにわからなくなる?あ?」

 「学んだんだから、学ぶほどにワカルようになるんじゃないの?」

 そういう疑問をもつ人がきっといると思います。気持ちはわかります。かつての小学校5年の私なら、やっぱりそう思ったに違いないからです。学ぶことを、どうしても「コップの水をいっぱいにさせること」だという心の習慣がぬけないからでしょう。
 でも今はちょっと違います。あのころに比べれば、ほんの少しだけ、学ぶことについて立ち止まって考えられるようになっています。いえ、むしろこう言いましょう。

 「学ぶことを立ち止まって考え続けたため、学ぶことがますますわからなくなっている」と。

 私は、実は政治のことを研究しており、この世の中はどうしてこんなに良いこともひどいことも起こるんだろうと、学問をしながらずっと考えてきました。そして「それはきっと◯◯という原因があるからだろう」と答えを出します。
 でもその後「それではそうなるためには何が必要なのだろう?」と考えます。また答えを出します。
 でもなおも思います。「どうしてそんなものが必要なんだろう?」と。
  同時に、また「どうして外国ではそうならないのだろう?」と疑問に思います。「きっと外国にはまた別の条件や理由があるのだろう」としながら、またまたまた思うのです。
 「どうしてその国ではそういう条件が生まれるのかしら?」と。

 学びや考えがつみ重ねられば、されるほどどんどんかつて持っていた100倍くらいの疑問があふれ出てきてしまうのです。
 これは不思議です。コップの水が半分しかないと思えば、足りないなと思って「知識水」を入れます。水を足し、学んだのだから世界はもっとクリアになるはずだと考えるのです。
 でもそうならないのです。世界のわからなかったことがわかってくると、それにくっついて必ずわからないことが増えてしまうのです。
 コップに水が増えます。すると今度はこう考えます。

「コップの大きさはこのくらいだけど、それを誰が決めたのだろう?」と。
「水ではなくて油を入れたらどうなるんだろうか?」

 学べば学んだぶんだけ、なんと世界の謎は深まってしまいます。
 どうですか?みなさん?「学べば学ぶほど世界はわからなくなる」というのが、このお話のとりあえずのちょっとイジワルな結論です。

 「何言ってんだ?このPTA会長?」と思ったあなた。
 まさに、それこそが「学ぶこと」のエネルギーのもとです。

 とか言いつつ、もう一つだけ言っておきますけど、やっぱり九九は大事ですからね。ぜったいに覚えてください(笑)。


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