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2023-09-25

今週末は恒例の秋Campを大分県竹田市で実施した。
Campはいつも通り最高であった。
場所、水、空気、仲間、どれも最高で、素晴らしい週末を過ごすことができた。

3家族でのcamp
満天の星(見えるかな?)

竹田の地理

竹田は盆地と言われることが多いが、盆地とは外周を山で覆われた平坦な扇状地を彷彿とさせるが、実際には谷と丘の町である。

地理的には、九州のヘソとも言える阿蘇山や、くじゅう連山の影響を大きく受けた町で、学問的に言えば阿蘇火砕流と大野川の侵食地形ということになるであろうが、とにかく崖とも言える小丘陵が連なりその底には大野川の支流が流れる谷がいくつもある、、、そんな町である。

私見ではあるが、町の風情を決めるものは高低差である。
平坦な土地にある町では人間の視点からでは見渡せるものが限られるが、高低差がある町は奥行きが生まれ、遠くまでその場所を捉えることができる。
また、高低差ごとに人々の営みが異なるために町の物理的な色が変わる。
植物や建物が変わるためである。
そういったグラデーションが町の色気を決めるのである。

百名城 岡城から望む

竹田といえば温泉

竹田といえば滝廉太郎の歌「荒城の月」で歌われる岡城と、炭酸泉が有名であろうかと思う。

岡城は100名城にも謳われている。
私が語る必要も無かろうが、城址の石垣は日本最高級の造形の美しさと言っても過言ではない。今回のCampでは立ち寄らなかったが、中世にはこの石垣を加工し施工する技術が確立されていることに驚かされる城である。

岡城の石垣

炭酸泉はcamp後に参加した家族全員で体の疲れを癒しに行ったが、最高であった。

竹田の炭酸泉の成分等はGoogle等で調べていただきたいが、個人的な効能は
・肌から余計な油分が取れて肌がサラサラになる
・入浴後、潜在的な疲労がドッと出て眠くなるが、寝た後は超爽快になる

と、どちらかというと湯治的な効果が高い湯、という理解をしている。
子供にとっては炭酸泉はとても楽しい温泉である。

私の娘は、皮膚にまとわりついた炭酸を限界まで貯め、それを一気に拭うのが愉快で堪らないようで、何度も繰り返すうちに湯中り寸前までになってしまったくらいである。

温泉の足湯にて妻と娘

これ以上の効能や湯の表現は、私の拙い文章では難しいので、百聞は一見にしかず、ぜひ行って湯に浸かっていただきたいと思う。

竹田の歴史

さて、恒例の竹田の歴史をまとめる。
竹田の歴史を語りはじめると長くなるので、少しまとめようと思う。

竹田は「日本の古代中世史における重要な謎」がたくさん詰まっている町と言える。

先史時代の空白の1000年

竹田には古代の遺跡、墳墓がたくさん存在している。
これは阿蘇や久住山麓に古来より人間が棲み、文化文明が存在した証である(これを歴史学者のある一部は後期阿蘇古代文明という)が、歴史という時系列線にのせると、縄文後期と弥生初期の間の遺跡が発見されていない。
この間の期間は1000年ほどである。この間に何が起きたのか。
阿蘇や久住の山々が噴火して人が住めなくなったのか、それとも政治的な理由で人がいなくなったのか。はたまたこの地域だけ文化Updateが1000年止まったのか、そのような先史時代のロマンが詰まった町なのである。

中世初期は源氏のゲリラ拠点

古代の九州はヤマト王権による政治が行き渡っていて割と平和な時代であった。500年代に今の福岡県で「磐井の乱」が発生して、竹田のある豊後は一時的に反政府軍である筑紫君磐井に一時的に占領されるが、結局ヤマト王権側に奪還される。中世前半の政治的な挙動はこの程度しかなかった。

しかし、世が武士の時代になると、一気に竹田はきな臭くなる。
1000年代後期、つまり平安の末期、院政が崩壊して平氏の世になると、その反動で源氏が日本各所(特に瀬戸内以外)で反平氏勢力を集め出す。

平氏の九州の拠点は瀬戸内の玄関口豊前小倉、宇佐神宮、新興外港である筑前博多、そして、当時の主要国際港である、肥前神埼(佐賀県)。貿易や商売、つまり金の匂いがする町にあったから、源氏はそれ以外のエリア、つまり耕作集落、山林を狙った。

竹田は平氏方の影響が薄い地域だったため源氏はここを重要拠点と捉え、総領の為義の八男で鎮西八郎と言われた源為朝を竹田に派遣。彼は竹田の騎牟礼城を拠点に九州の武士集団を従え反平氏勢力を構築しようとしたのである。

今であれば過激派テロ組織の重要拠点が竹田であったのである。
一方で、この時期に残された源為朝の著述には、竹田のことは「おとなしがはら」とかかれている。 ゲリラ拠点が「おとなしがはら(おとなしい原)」と書かれたのはどう言うわけなのか、これも謎である。

中世の中後期以降は謎はなくなり、歴史の表舞台に

中世以降の竹田は、近郊の熊本県菊池市が南北朝の動乱の中心地であったのでその影響を大きく受けて、南朝北朝の都度鞍替えしながら平穏を保ってきいたし、戦国時代は相模大友氏の入部、豊薩合戦、秀吉の中国征伐、キリシタン弾圧、近世近代では茶屋の辻の戦いという西南戦争の重要な戦闘が発生している。

まさに日本史の中心のイベント、つまり、教科書に掲載されている歴史的出来事の大きな渦に巻き込まれ、表舞台に立たされてきたのが竹田である。

個人的に阿蘇より久住が山としては好き

歴史の話はここまでとして、やはり九州に移住した身としては、九州のヘソとも言える阿蘇や久住周辺でその景色や風土を楽しまなくては損である。

阿蘇は地理学的には非常に貴重で、阿蘇の噴火が日本のみならず、地球の地理を形づくったことであったのもよく知っているが、個人的には久住の山々の方が好きである。

その山稜線の美しさ、裾野の地理的造形の美しさは阿蘇のカルデラとは比較にならないほど無造作である。

今の竹田

現在の竹田は人口統計上から見れば、明らかな過疎自治体である。
主産業は農業と観光業となっている。

しかし現地に行ってみると、その過疎を逆手にとって様々な取り組みを行おうとしているのが見える。

市が打ち出した、農村回帰宣言というまちづくりが面白い。
研究論文まで出されている。
いわゆる、大量消費、大量雇用、市場競争をもう追わない、という生存戦略である。大都市での雇用確保も難しい現代において、この政策は個人的には地方の基礎自治体が取る選択としては正しいのではないか、と思う。

なにか新しいことをチャレンジしてみようとする場合には、こういう竹田のような自治体でスモールスタートをするというのはとても良い戦略だと思う。

竹田の話に終始してしまった

そういえばCampに行った話をしようとしていたのだが、竹田の話になってしまった。

今回のように、一泊二日のShortステイであったが、やはりCampは良い。
アウトドアを楽しむだけではなく、宿泊したその地域の歴史、風土、風俗、雰囲気を知ることができるからである。

今年の秋ももうすでに一月が経とうとしているが、できればあと1回、家族とCampに行きたいものである。

さて、次はどこへ行こうか。

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