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昔は良かったよね、って言いたくない! ファッションインジャパン展からみる原宿ファッションの歴史といま

1. 「ファッション イン ジャパン 1945-2020」 展

先日、国立新美術館で9/6まで開催中の「ファッション イン ジャパン 1945-2020 ーー流行と社会」を観に行きました。
これは、日本で「洋服」が着られるようになってからのファッションの歴史を一挙にふりかえる展覧会です。

戦前の銀座を闊歩するモダン・ガールたちにはじまり、戦時中のもんぺ、戦後の洋裁ブーム、そして日本人デザイナーの活躍――
75年以上にわたる時代の流れのなかで、日本ではどんなファッションが生まれ、人々を動かし、街を変えていったのか。それをさまざまな角度から問いなおす、膨大な資料に囲まれた展示空間(3時間くらい余裕をもって観に行くのがおすすめです!)。
年表のなかを歩いていくように、触れそうなほど間近でほんものの服の素材や存在感に見惚れていると、その時代その時代の女の子として自分が生きているような気分になってきます。
それは、言葉と写真でしか知らなかったファッションの歴史を、身に纏うかのように味わえる、ひとときのタイムスリップみたいな体験でした。
私自身のファッション遍歴としては、2000年代に原宿ファッションが大好きな女の子だったのですが、なかでもずっと変わらず好きなブランドのひとつが、この展示の中でもたくさんの服が飾られているMILKです。
MILKが美術館に展示される時代!

私が10代のころ、どんな青文字系雑誌にも毎号かならず載っていたMILKは、滴るようなチェリー柄やりんご柄、ベビードールのようなシルエットなど、甘い中に毒っ気が主張しているデザインで、すぐに覚えてしまいました。そしてどんなに大胆・ポップであっても決して下品で安っぽくはならない美意識を感じさせるのが、唯一無二の魅力のように思います。
実店舗のない(その後、数年間だけできたが)福岡に住んでいたので、なおさら手の届かないブランドだという恋心が募っていったのかもしれません。上京してからはさらに追いかけていて、古着店で昔のアイテムをちまちま集めていたこともあったけれど、じつは創立当時のMILKのお洋服を生で見るという体験をしたのは、この「ファッション イン ジャパン」展がはじめてでした。

ブルー地に赤のファスナー、赤のロゴが効いたニット。さまざまな模様のレースがあしらわれた、ネグリジェのようなまっしろなワンピース。ピノキオが大きく編み込まれたニット(大丈夫だったのか?)。いまのMILKの店頭に並んでいても違和感のないデザインです。
トルソーの並ぶ展示空間のなかで、ふと近くを見ると、ナチュラルなお洋服に身を包んだ5、60代くらいの女性が、うっとりとつぶやいていました。
「懐かしい!MILK、流行ったわよねぇ」
あれ、MILKってそんな感じで浸透してたっけ?
私が好きになったころ、周りでMILKを着たり語ったりしている人は、大人どころか同世代にもいませんでした。クラスの大多数が読んでいた『Seventeen』『non-no』などのモテ/ギャル/コンサバ系の雑誌ではMILKが取り上げられていることは少なく(私は見た記憶がないです)、着ている人を見られるのはやっぱり『Zipper』や『CUTiE』といった青文字系雑誌のほう。そんなMILKは私にとって、頭の中の原宿の「かわいいもの好きで攻めてる”おしゃれびと”」だけが着ていたイメージで、誰もが知る流行りのブランドだったという認識ではなかったのです。
私はきっと小さな部屋の中で、狭いクローゼットを眺めるようにファッションをみていたんだなあと気づかされました。

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▲MILKカタログ 2007年、2014年、2021年 (筆者私物)

でも、「ファッション イン ジャパン」に展示されたさまざま資料をみていくうちに、私は小さな自分の部屋を飛び出して、ようやく街を、ファッションを立体的に見つめることが少しできた気がしました。
同時に、かつての時代をうらやましいと思ってしまう自分に気づき、いまの原宿――私の愛する街ーーにも思いを馳せることになったのでした。

2. 70年代原宿をつくったセントラルアパートとは


「ファッション イン ジャパン」では、60年代半ば〜70年代に原宿エリアでファッション界を引っ張っていったブランドの様子が、インスタレーションで再現されています。
展示空間の一角によみがえるのは、マドモアゼルノンノンブティック・コレットのお店の中。
デザイナー・荒牧太郎が立ち上げたマドモアゼルノンノンは、黄色、水色、白といった元気な色合いの店内に、赤や青のパキッとしたお洋服が映えていて、パリのエッセンスを感じさせます。
いまではフレンチ・カジュアルやシンプル系の定番となったボーダー柄は、このお店をきっかけに日本でヒットしたのだとか。とりあえず無難に選びがちなボーダーも、マドモアゼルノンノンのスタイリングをみると、映画のヒロインのように粋に着こなしたいと思えます。

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イラスト: 大石蘭


もうひとつ再現された、コシノジュンコによるブティック・コレットの店内は、またがらりと変わった世界観。一面ピンク色の壁に貼られた、モノクロのピンナップ写真が目に飛び込んできます。真っ赤なケースに入った金子國義による女性の絵も妖しい存在感を放っていますが、じつは金子氏は店内の家具のデザインも手掛けていたのだそう。唇のロゴマークは宇野亞喜良デザインとのことで、コシノジュンコ周りの文化圏を凝縮したようなお店だったのだな、とうかがい知ることができます。コシノジュンコは、墓地の近くの通りの名前を「キラー通り」と命名したり、そこから事故で突っ込んできた車をしばらくそのまま展示していたりと、調べるとやばいエピソードがいろいろでてきてますます気になってしまいます……。

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▲「ファッション イン ジャパン」展のフォトブースより。
左から、ニコル、MILK、そして山本寛斎がD.ボウイに提供した衣装。

このようにファッションの街として栄える前、原宿は住宅街だったそう。
それが大きな変化を遂げたのは、1964年の東京オリンピックがきっかけだといわれています。
国立競技場や選手村(代々木公園)から近い原宿エリアでは、たくさんの人が集まることを見越して道路が拡張され、大きなビルの開発が進められました。
そのころ、明治通り(この通りの名前もオリンピックに向けて付けられたそう)と表参道が交わる交差点、いまの東急プラザがある場所に建ったのが、原宿セントラルアパート
アパートとはいっても、1960年代後半からは単なる住宅ではなく、上層階には事務所、下層階には店舗が入るというかたちになっていたようです。
やがて、ここに若いアーティストたち(イラストレーター・宇野亞喜良、コピーライター・糸井重里、写真家・繰上和美ら)がアトリエを構え、1階の喫茶店「レオン」で交流するという、ひとつの文化圏が生まれるようになっていったのだそう。
そのセントラルアパートに出店したブティック第一号が、先ほどのマドモアゼルノンノン(1964年)。
そして1970年、こうした文化の盛り上がりの中、セントラルアパートの1階にブランドをオープンしたのが、デザイナーの大川ひとみーーこれが、MILKのはじまりだったのです。つまり昨年で創立50周年。その歴史の長さを大々的にアピールはせず、ただかわいい服を作りつづけることで経験の豊かさを覗かせるところも、MILKの現役たりうるゆえんなのでしょう。そのスタンスが、なんてコケティッシュ!
キャンディーズをはじめ、70年代アイドルのレコードジャケットなどでも多数使われ、認知度と女の子たちの憧れを高めていたようです。

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▲ かつて1998年まで原宿セントラルアパートがあった地には、いまは東急プラザ 表参道原宿 が建っている。正面に建つラフォーレ原宿は1978年から。  (2021年8月)

70年代、こうして原宿のストリートに根付いたブランドは、『an・an』をはじめとする雑誌に紹介されて、瞬く間に普及していったようです。
展示空間にこぼれる「懐かしい!」という声も、このようにブランドが広く浸透していたことを仄めかしていたのかもしれません。

3. 80年代、世界へ発信される原宿ファッション

日本の経済成長が頂点をきわめた7、80年代、こうして知名度を上げた国内のブランドは、やがて世界へと発信されていくことになります。

70年代から80年代にかけて、日本のファッションの発展に大きく貢献したのが、同時期にいくつものブランドのファッションショーを開く「ファッション・ウィーク」が国内でもおこなわれるようになったことだといわれています。

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イラスト: 大石蘭

1974年、コシノジュンコニコルの松田光弘ピンクハウスの金子功ビギの菊池武夫花井幸子山本寛斎の6名で、「TD(トップデザイナー)6」が組織されました。これが日本のファッション・ウィークのさきがけで、世界の目を東京のファッションに向けさせるという狙いがあったようです。
こうした試みによって、83年、アメリカの『タイム』誌で日本のデザイナーたちが大きく取り上げられることになります。
川久保玲山本耀司らは、それまでの西欧の伝統的な美意識をくつがえす前衛的なデザインで衝撃を与え、「ぼろ」などネガティヴなコメントも多く受けたようですが、新しい価値観の創造として高く評価されるようになっていきました。

一方、国内のポップカルチャーとしては、テレビが一般家庭に普及してアイドル文化の絶頂期。
展示のなかではVIVA YOUの中野裕通が手がけた小泉今日子の衣装がとくに印象的でしたが、アイドルが歌やパフォーマンスだけでなく、ファッション面でも注目を集める存在となっていったのはこの頃からだったそうです。
ハイファッションに、かわいい要素、ポップなアイコンが三位一体となって、お茶の間を惹きつけていく。こうしてブランドへの憧れは、さらに加熱していったのでしょう。

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「ファッション イン ジャパン」展のフォトブースより。
右から2体目が中野裕通がデザインした小泉今日子の衣装。 

これらが、「ファッション イン ジャパン」展でみてきた、私が生まれる前の原宿、そして日本のファッションの様子でした。

では、そこから40年以上経って2020年代を迎えたいま、原宿はどのように変化しているのでしょう。


4. 変化していく原宿

そういえば最近『呪術廻戦』を観ていたら、田舎から上京した釘崎野薔薇ちゃんが原宿に来たとき、目をきらきらさせてクレープ片手に「原宿!!!」とテンション高く騒いでいて、「そうそう、原宿への憧れってこんな感じだったなあ…」と我がことのようにしみじみしました。
しかしあの感じ、いまの10代は共感できるんでしょうか?

近年、10代に人気のスポットとして注目を集めている街のひとつに新大久保がありますが、こちらは「韓国タウン」というわかりやすい特徴があるので、韓国ドラマ・韓国アイドルブームの波に乗り、フード、美容、アイドル、カフェなど、いろいろなジャンルをひっくるめて独自の需要をキープし続けているように思います。
また、かつては女性がふらっと入れないようなイメージだった新宿・歌舞伎町は、ここ数年ですっかり「地雷女子」の街として有名に。この現象は、この街で夜遊びするような女の子たちの特色が、ファッションやメイクからプロファイリングされるようになり(MCMのリュックが「歌舞伎町のランドセル」と呼ばれるように)、そこに表れる彼女たちの精神性が開き直り的に「地雷」系と自称されているものです。

いま、何年かぶりに原宿に行く人がいたら、シャッターが増殖している竹下通りに驚くかもしれません。
「原宿系」なんていうワードもちょっと懐かしい匂いを帯びてきたし、「原宿」という地名にまつわる「若者の最先端のおしゃれな街」「日本が世界にアピールできる個性的な街」みたいなイメージも、ひと昔前のものになりつつあります。
韓国コスメやタピオカが流行ってからとくに顕著になりましたが、原宿は流行を生み出す街というよりも、流行を後追いして、ほかの都市との違いがあまりわからない街になっている感を否めません。
数年前までは原宿でインスタ映えカフェが次々と生まれてそのつど話題になったりもしたけれど、コロナ禍となった今、原宿を盛り上げるポイントを飲食におくのも厳しくなってしまいました。

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▲原宿、竹下通り  (2021年8月)

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▲原宿、キャットストリート  (2021年8月)

そもそも、いまはインターネットによってどこに住んでいても基本的にひとしく情報にアクセスできるようになり、都心と地方の情報格差もほぼなくなりました。
東京からはるか遠いスポットや人が、瞬く間に話題になることもよくあります。
買い物だって、実際に街へ出向かなくてもネット通販で日本中、世界中のファッションアイテムを買うことができます。
ニュース発信としての役割は、雑誌からインターネットへと取って代わられ、インフルエンサーと呼ばれるSNSフォロワーの多い人たちが個人でメディアとしての役割をもっています。また、どんな人も手軽に発信できることで誰もが「バズる」(または「炎上する」)可能性を秘めていて、テレビはあくまでもネットでバズったことを後追いで紹介する、という立ち位置になっています。

2010年代の、インバウンド需要をねらったHarajuku  kawaiiの発信、ステレオタイプ化されたクールジャパン戦略は、一時は原宿に外国人観光客を多く集め、2020年の東京オリンピックによってさらなる盛り上がりをみせるかに思われました。しかしこの2021年、観光になど来られない現状になってしまったのは周知のとおりです。

そんななかで、原宿がまた若者をわくわくさせるような、他の街とは違うファッションと文化の発信地になることはできるのでしょうか?
今後、地域に根ざして作り手が集う交流の場ができることが、最先端の流行を発信地できる新たな街が生まれるかどうかの鍵になるのではないかと思います。

原宿にあった若手のデザイナーやアーティストの拠点としては、90年代の同潤会アパートも挙げられますが、今はそのような場もなくなっています。

その頃(90年代前半)、ラフォーレ原宿で「新原宿宣言委員会」という、新人デザイナーをインキュベートして育てる勉強会があったんです。
(中略)そして1996年、ラフォーレのサポートによって、FOPPISHを立ち上げました。ラフォーレから貸してもらった同潤会アパートを、家賃タダでアトリエにしていたんです(笑)。

【HONEY SALON 20周年】 代表・千葉雅江さんインタビュー 前編 より(取材・文:大石蘭)

また、雑誌文化の黄金期に原宿が特別だった要素として、いまもかろうじて残っていることとすれば、これもコロナ禍には厳しくなってきてはいますが、読者モデル(今のインフルエンサー)やデザイナーなど、原宿でよく仕事をしている人たちと出会える可能性があるという点でしょうか。

インフルエンサーの立ち上げる若者向けのブランドは増える一方で、店舗をもたないブランドが多い中、原宿というリアルな場にこだわった例としては、YouTuber・アーティストのあさぎーにょが、服や内装のデザインまで手掛けるブランドpoppyの路面店を2021年原宿にオープンしています。


▲あさぎーにょのブランドpoppyの外観。



ここで、原宿の「憧れの人に会える」という性質が、「会いに行けるアイドル」のようなものとも、メイドカフェやコンセプトカフェともホストとも大きく異なるのは、「歩いていたら◯◯がいた!」「あの◯◯にスナップされた!」「◯◯に接客してもらった!」というような”偶然“性によって訪れる者を惹きつけていたところです。その偶然の可能性を上げるため、若い世代は全力のおしゃれをして、必死に情報を集めて街へ繰り出す。そこに原宿にしかない特別な高揚感がありました。
しかし、『FRUiTS』をはじめとするストリートスナップ雑誌が一度なくなったいま、ウェブメディアはあるとはいえ、スナップを撮られるということのステイタス感は薄らいでいます。情報はSNSでリアルタイムに更新され、その都度チェックできるのが当たり前のいま、偶然の出会いという不確かなときめきにエネルギーを懸けることは、もしかしたら時代遅れなのかもしれません。

それならば、会いたい人に確実に会いに行ける場、好きなもので繋がる人同士が交流できる場づくりが、コロナ明けの原宿に必要だと私は思います。
きゃりーぱみゅぱみゅや ぺこ&りゅうちぇるのような、お茶の間まで浸透する原宿的スターの誕生を期待したり仕掛けたりするより、これからの時代は知名度が高くなくても、細分化・多様化したコミュニティを盛り上げる、コアな存在が影響力を発揮できる場が増えていくといいな、と思います。

たとえばロリータ文化に関していえば、各地から集まったロリータ愛好家がそこに行けばいつでも「お茶会」ができて、情報交換をしたり好きなものについて語らう仲間ができるようなお店があったなら……そんなことを夢想してしまうのです。

5. 原宿カワイイから原宿レトロへ

再び世界中からたくさんの人を招くことができる日がきたとき、どうすれば原宿は、原宿にしかない魅力を世界に発信することができるのでしょうか。

Instagramでハッシュタグ #harajukufashion を検索してみると、その投稿数は100万件を超え、主に外国在住の多国籍の女の子たちによって絶えず更新されつづけています。それは原宿がいまも世界中にファンを抱えていることのあらわれですが、そのファッションは、ロリータ、デコラ、きゃりーぱみゅぱみゅ系などに独自の解釈を加えたような多様なもの。過去の原宿から蜃気楼のように立ちのぼるムードを切り貼りした、一種のヴェイパーウェイヴ感のあるスタイルのようにみえます。

コロナ禍が収束したら、海外の原宿好きは――国内の人も同じく――、「リアルタイムでは知らないけれど”なんか原宿っぽい”もの」、を求めて原宿を訪れるのではないでしょうか。
それはたとえば、いま日本で空前の「純喫茶」ブームが来ていて、ミレニアル世代が「昭和っぽくて懐かしくてエモいもの」を求め、古い喫茶店や、わざと昭和風に作り込んだ新しいカフェ(ネオ喫茶)に集っているという現象に似ている気がします。
そのとき、もはや原宿カワイイは、原宿レトロになっていくのかもしれません。
原宿に新しい文化が生まれることを考えると同時に、原宿に在りつづける「文化遺産」を保護していくこともまた、重要なのではないでしょうか。
私自身も微力ながら、原宿のブランドやお店に行くたびに、そんな活動につながったらと思いながら発信をしています。

ラフォーレ原宿には、Angelic PrettyJane Marpleなど80年代から続くブランドが入っている一方、国内外の気鋭のデザイナーやインディペンデントブランドがピックアップされつづけています。
MILKは原宿セントラルアパートから明治通り沿いに移転していまもなお、かわいく飾り付けられたショウウィンドウで通りを歩く女の子を魅了しつづけています。
花泥棒クリスティーといった、静かなオアシスのような喫茶店もあります。カフェといえば、増田セバスチャンプロデュースのカワイイモンスターカフェが今年閉店してしまったことは本当に残念ですが……。
さまざまなカテゴリーを網羅する古着店も原宿にはまだまだ多くあり、原宿ファッションのアーカイヴをサステナブルなものとして循環させていく役割も果たしてくれそうです。

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▲竹下通り近くに建つ老舗の喫茶店・クリスティー。  (2021年8月)

他の場所では理解されないかもしれない大好きなファッションを、思いっきり胸を張って主張できる街が、原宿でした。
インターネットを通じて、時代も空間も超えてファッションと触れ合ってきた世代が、いつ来ても「あのとき見たあのファッションがある!」という刺激を受けられる場所。
原宿が、そんな大きなクローゼットのような街でありつづけてくれたらいいな、と思うのです。

( 文・写真・イラスト:大石蘭 )

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《参考・関連資料》

『ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会』
本展の図録。かなり情報量が多く、1冊持っていたらこれからも何度も参考にできそうな、ファッション好き必携書。ただ、同じブランドやデザイナーがさまざまなテーマで複数回取り上げられたりするので、索引がほしかったり、自分で整理する必要があったりします(そんな整理の意味をこめて、こういう記事やイラストなんかを書いてみています)。


『相対性コム デ ギャルソン論 ─なぜ私たちはコム デ ギャルソンを語るのか』

川久保玲が立ち上げたコムデギャルソンについて、よく語られがちな80年代以降にとどまらず、70年代からの変化についてもさまざまな角度から分析した一冊。個人的には「「かわいい」から読み解くコムデギャルソン」という項が興味深かったです。


『spoon.』142号
私の執筆した「ファッション イン ジャパン」展レポート記事を掲載していただいた雑誌『spoon.』2021年8月号。
その際はとくに2000年代以降のファッションに焦点をあてました。
2000年代以降を取り上げた理由としてはいろいろあるのですが、『spoon.』という雑誌が2000年に創刊され、リアルタイムでこの時代のファッションを発信してきたということがまずひとつ。
もうひとつは、1990年生まれの私は、この時代のファッション、なかでも「原宿ファッション」こそ自分の原点だという思い入れが個人的に強く、イラストでも描いたロリータファッションなどに関してはとくに語ることが多かった、という理由がありました。

大川ひとみ MILK/MILK BOY | それぞれの原宿物語 a long time ago in harajuku Vol.4
MILKデザイナー大川ひとみさんのリアルなお話が伺えるインタビュー。
ちなみにひとみさんは今でもMILKのデザイナーとして活動を続けていますが、昨年たまたま原宿のMILKでお見かけしたとき、「50周年おめでとうございます」とご挨拶したら、「いやいや〜、そんなの気にしてないわよ!」とおっしゃっていたのが印象的でした。時代なんて関係なく、常に新しく突き進みつづけるMILKの精神を目の当たりにした気がしました。


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PROFILE
大石 蘭 / ライター・イラストレーター
1990年 福岡県生まれ。東京大学教養学部卒・東京大学大学院修士過程修了。在学中より雑誌『Spoon.』などでのエッセイ、コラムを書きはじめ注目を集める。その後もファッションやガーリーカルチャーなどをテーマにした執筆、イラストレーションの制作等、ジャンル問わず多岐にわたり活動中。


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