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南アルプス前哨戦で距離感覚が崩壊する【2012.05 伊吹山】

いよいよ南アルプス前哨戦、伊吹山登山。滋賀と岐阜の県境に聳える名山。米原・大垣間を電車で通るとき、いやが応にも目に入る存在感のある山である。伊吹おろしとして知られる風の通り道上にあり、冬期は日本海気候に似た積雪の多さに見舞われる。風の落とし物はすべて伊吹山で見つかるだろうというくらい、日本海からの贈り物が伊吹山で感じられる。地理的条件の生んだ風の軌跡は、伊吹山に花の名山というもう一つの顔を生み出し、豊かな生態系の躍進に一役買っている。

これまでポンポン山、能勢妙見山、金剛山、青葉山と様々なバリエーションで登山を重ねてきた。今回伊吹山で経験しておこうと考えたのは、森林限界より高いところでの稜線歩きを想定した見開きの良い登山道を歩くこと。遠大な道を歩くというテーマのもと、伊吹山選定に至った(本音を言えば、赤坂山を中心とした高島トレイルがアルペン的で一番よかったとは思うが、当時はわからなかった。伊吹山はどちらかいうと富士山前哨戦に向いている)。

実は伊吹山に登れたことが、南アルプス登山の準備において一番良い経験になった。関西圏の登山と高所登山の大きな感覚の違いに気づかされた。

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旧スキー場の名残のあるバス停を発ち、伊吹山へと向かう。関西圏・東海圏・北陸圏のどのエリアからもアクセスが良いため、これまでの山と比べものにならないほど登山者数が多い。

登り始めてすぐ、2合目か3合目の時点で展望は開ける。スキー場の跡地を通り抜け、ジグザグにつけられた道を地道に登っていく。これがぜんぜんうまくできなかった。

展望の良い山、それも外に対して開かれた展望ではなく、進行方向に対して開かれた景色、つまり進む先の登山道や山頂がよく見える状態に初めて直面し、目的物との正しい距離感覚を保てなかったのだ。

歩みは着実に重ねられているはずなのに、目の前の目標物との目視での距離感に感覚を狂わされ、妙に疲労感がたまったり、ペース配分を間違えたり、休憩するタイミングを見失ったりと、これまで培ってきたことがいろいろ上手く機能しなかった。

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当日の伊吹山の天候が曇りだったこともあり、6合目から上は雲に包まれて余計混乱した。

自分自身と目的地の距離だけを見て登る、これが山では禁物だったのだ。

標高1,500m以下の山が大多数を占める関西の登山においては、2時間分のコースを終始遠望できるような見通しの良い登山道はほぼない。地形図をベースに計画を立てるものの、一方では目の前で視認できた短期的目標地点(あの尾根まで行こう、あの木まで行こう)に向けて、次々と歩いて行くようなやり方をしていた。

しかし伊吹山のように初めから最終到達地点が見えており、山頂との相対的位置が終始わかってしまう登山ではそれが通用しなかった。自分と山頂との距離だけに囚われてしまって。

これまで進んできた道程、現在地、そしてこれから登る道程。これらを相対的な位置関係の中で理解すること。

山頂が遠いのはわかった、でもおれたちはこれまで確実に3割進んだぞ、という感覚をもつこと。視界が悪くて山頂は見えないけど、地図上ではあと30分ほどで着くはずだという、視認できない(地図上の)情報を汲み取るための技術と経験を駆使すること。そうした技術と経験に裏打ちされた冷静さを保ち信じること。

すべては、この遠い道程のため。

この遠い道程を支えてくれるものは、目標との距離感だけではなく、これまでの歩みの積み重ねである道。前に伸びる道と、後ろに伸びる道、そしてわたし。自然はそれをただ見守ってくれている、そう思えば良い。

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南アルプスに臨む前に、伊吹おろしによる重い拳を食らったのが今回の登山。下山する頃には私も砂丘もえらく顔が老けており、疲労が顔に滲み出ていた。距離感も考え方もぶっ壊されたが、とても良い経験をさせてもらえた。伊吹山というのは、とても厳格な性格の山なのかもしれない。

電車で米原・大垣間を通るとき、伊吹山が厳めしい態度でこちらを見ている気がするのは、きっと気のせいではないのだろう。いつかちゃんとお礼を言いたいものだ。関西にも北陸にも東海にも通じる伊吹山が何弁を話すのかは気になるところだけど。

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