社会人受験生の「身の丈」

昨日こんな記事が目に留まった。

ふざけるな、と思った。

私は社会人として働きながら大学受験に向けて勉強を続けている、いわゆる社会人受験生である。一度大学に入ったが紆余曲折あって退学・就職を経て学問への志を新たにまた大学を目指している。私はいわゆる「ファースト・ジェネレーション」であった。すなわち両親も上の兄弟姉妹も大卒ではない中、家族で初めて大学に進んだ。当時そして今の両親の経済状況を考えれば私が大学に進学できたのはほとんど家計の全力に近いものであったと思う。そういった意味では私も家計の「身の丈」に合わない道に進ませてもらったと言えるかもしれない。

翻って自分の財布で大学受験を目指すことになった今、痛烈に頭を悩ますのはやはり金の問題である。私はこの2年間働きながら受験勉強を続けてきている現在進行形の受験生なのであるが、同時にこの2年間は経済的な意味での「身の丈に合った受験」というものを考えさせられる期間でもあった。私の高校はいわゆる進学校というものではなかったし、熾烈な受験競争に身を投じなければならないような進学をしたこともなかったから、ザ・受験というものがどんなものなのか分からなかった。その正体を知ったのはついここ2年くらいのことである。一言で言えば、受験は経済力の勝負だ。塾に通う金、家庭教師を雇う金、模試を受ける金、予備校に近い都心に住む金、幼少期から良い教育を受ける金、勉強以外の雑事に時間や心を浪費せずに過ごすための金、入学後の費用を案じずに過ごすための金。金金金だ。かたや自分は田舎で家計簿に頭を悩ませながら予備校にも通えず独学の日々を過ごして、模試のために数ヶ月に一度だけ都市部にホテルをとって出かけてゆく。都心に住んで模試やら特別講義なんかを浴びるように受けられる受験生とは全く対照的だ。これで受験競争に経済格差を感じるなという方が無理というものだ。

しかしそれでも、筆記試験一発で決まる大学入試の「公平性」は最後の希望であった。それがどうだ。今度の英語民間試験導入は、他でもない国の主導で大学入試に経済格差を打ち込もうとしているようなものではないか。これまでの受験産業界主導の経済格差とは全く次元の違う話だ。文科省ホームページの「教育の機会均等」の文字が空虚に映る。さらに別件だが、文科省の進める「大学無償化法」も高校卒業後2年以内でなければ無償化対象から外れてしまう。つまり未成年時点で受験競争に勝てなければあとは自分の金で頑張りましょうということだ。上に述べたように受験競争は経済力の世界だ。したがって未成年の受験競争は少なくない部分が親の経済力に左右されるのであり、これでは経済格差の固定化を助長するだけではないか。それに社会人受験生のことだって全く蔑ろにしている。リカレント教育推進—これも文科省だが—が聞いて呆れる。

いま私は自分自身の受験勉強をすると同時に高校生の姪にも勉強を教えている。実際に大学に進んでくれるかは別として、文化資本的な意味での「セカンド・ジェネレーション」になってほしいと強く願う。経済格差からの脱却のために個人が持てる最大の武器は文化資本だと思うからだ。そうまで過激なことは言わないとしても、少なくとも教育は人生の選択肢を広げてくれるし、そうして選択肢が広がることはひとつの幸福だと信じている。だからこそ私は「身の丈」を強いる今回の教育改革には強く反対するものである。

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仕事をしながら東大受験を目指す、東北在住の20代男子。 商業高校→大学進学→退学→IT企業就職転職。
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