「専門家になりたい」の思い込みから逃れられた件

※本noteは割と自分語りです。
※お昼休みに投稿できず、とはいえ毎日のnote活動を欠かしたくはなかったので、夜10時から11時までの1時間を使って投稿しています。
※同じような境遇にいる人に、ちょっと生きやすくなるためのヒントを与えられるかも、という動機で書いています。
※本noteで用いている「軽々しい」「軽率」という単語には、ネガティブな意味合いは一切ありません。むしろポジティブなものとして用いています。
※「スペシャリスト<ジェネラリスト」という思いは一切持っていません。

長きにわたり抱えていた劣等感について

唐突であるが、筆者はある執着めいた考えを持っていた。それは、「私は○○の専門家です」という、いわばアイデンティティへの渇望だ。「○○といえばこの人に訊けば大丈夫」「○○についてこの人以上に詳しい人はそうそういない」と言われるような、ある分野の第一人者、いやそこまで圧倒的な人間ではないにせよ、トップクラスの知見を持った人間になりたかった。

そうして、私はこれまでさまざまな分野に手を出し、自分が戦えそうなフィールドを探し回っていた。だが当然そんな分野が簡単に見つかるはずもなく、たいていは自分より○○に詳しい人間がすぐそばに存在しており、愕然とするのである。「学問や趣味は競争だ」という思い込み(幼少期からの刷り込みかもしれない)が私にこう囁くのである。「お前より詳しい人がすぐ見つかるような分野、やっても一位にはなれないぞ。やる意味はあるのか?」と。そんなこんなで「自分のフィールド」を見つけることができず、自分の存在価値がわからずに人生を彷徨っていた。

この試行錯誤が、私が抱いている大きなコンプレックスのひとつだった。「やりたい」と言っておきながら、一定のクオリティになる前に諦め、次のことをしてしまう。その結果、何のスペシャリストにもなれず、己のアイデンティティの構築に失敗するのだ。そうして常に「飽きっぽいから何事も大成しない」と嘆き、己の飽きっぽさややり遂げる力のなさを恨んでいた。

だが、この「やり遂げなきゃダメ」という、過去の私にとっては当たり前すぎた信念をキレイに打ち壊してくれた文を偶然見つけた。それを紹介したい。

「やりたいことを軽率に抱いても良い」という気づき

それはこの記事だ。
ホロライブに所属しているVtuberの「夏色まつり」ちゃんというタレントが、このように述べている。

(白銀ノエル:)(まつり先輩は)たぶん、ホロライブ内で一番行動力があるんじゃないかなって思っています。
(中略)
まつり はい。もしできなかったとしても、言うだけならタダみたいに思っているので。やりたいことはとりあえず口に出して、その中の一個でも何かができたら嬉しいな、みたいな感じで考えています。
※カッコは引用者注。

まつりちゃん曰く「言うだけならタダ」。そして、すべてをやり遂げなければいけないというわけではなく、「その中の一個でも何かができたら嬉しい」くらいの軽い気持ちでいれば良いのだと。

私にとってこの言葉はまさしく目から鱗であった。
これまでの私にとって、「やりたい」という言葉は「この分野に人生を賭けられるか試してみよう」を意味していた。であるから、何かの分野に興味を持って「あ、これやってみたいな」と思ったとしても、そこで多くの人に勝てる算段が付かない限り「やりたい」と口に出すことはしなかった。それほど、私の中での「やりたい」という言葉は重みを帯びすぎており、それが自分の生き方として当たり前だと思っていた。

この発言によって、私は「やり遂げなきゃ病」に気づくことができ、「やりたい」という言葉をもっと軽々しく用いることの気楽さ、健全さに気づいた。
そうして、筆者はようやく人生の舵を別の方向に切れるようになった。それが今日の昼過ぎのことである。

スペシャリストじゃなくても良いんだ

そこから私は、もっと軽々しく「やりたい」という単語を使うことを決意した。
「今すぐやらなくては」「現実的でなくては」「自分がある程度の適性を持っているものでなくては」「採算がとれるものでなくては」などと言ってくる、自分の理性的な部分(理性的な自分/感情的な自分の対立と混同については別のnoteで語るかもしれない)の声を無視することにした。その第一歩が「やってみたいことリスト」だ。……やることリストではない。やりたいことリストでもない。もっと軽率に、ただやってみたいと一瞬でも思ったものをどんどん登録するリストである。

それはさておき。
どんどんやってみたいことを広げていくと、当然スペシャリスト的な生き方はできない(そもそも飽きっぽいので、そんな生き方には向いていなかったのだが)。では、どう生きるのが良いのか。そして、アイデンティティやレゾンデートルはどのように確保するのか。

結論から言えば、私はジェネラリスト的な生き方をしてみようと思う。「私は○○の専門家だ」的な表現を用いるなら、「私はいろんなものを齧って楽しむ専門家だ」となる。……そう、「○○」は別に特定の分野が代入されるだけの変数ではなかったのだ。「いろんなもの」などという漠然としたものを代入しても何ら問題はない。ダメだというのは昨日までの私の思い込みであって、そこにはひとつも根拠はなかったのだ。

もちろん、この生き方には弱点もある。いろんなものに手を出している以上、ある分野において強くなることはまあ不可能であろう。であるから、aという分野においてはA氏に勝てないだろうし、bという分野においてはB氏には勝てない。特定の分野に着目すれば、私は常に負け続ける存在となるわけだ。「趣味や趣味は競争だ」「人に勝たなければ意味がない」という呪縛から完全には逃れられていない現時点では、多少の劣等感は拭い去れない。

だが、ジェネラリストにはジェネラリストなりに戦い方がある。aとbという個々の分野においてはA氏やB氏に勝てないとしても、私には「aとbのアイデアを掛け合わせた新発想」ができるかもしれないのだ。学問では「学際」と呼ばれるであろうこの手法において、ジェネラリストはスペシャリストと比べて多少の分がある。
また、さまざまな分野を齧っているということは、新しい分野のインストール速度にも良い影響を与える。新しくcという分野を学ぼうとしたとき、その中にaやbの概念に似たものがあれば、「ああ、あれと同じ仕組みなのね」という類推が働き、cの理解がスムーズになる。かかる学問間の繋がりのようなものは実に面白く、またジェネラリストとして成長することにも繋がる。スペシャリストが何かを深く掘り下げていくのは大変かもしれないが、ジェネラリストが興味の裾野を横に広げていくことは容易い。成長のしやすさという意味では、スペシャリストに勝るのである(成長という語の定義によってこの主張は変わるが)。

ただ、ビジネスの世界で立身しやすいのは、おそらくスペシャリストだろう。専門知識や専門技能を持っている方が、企業としては仕事を振りやすく、仕事の評価も行いやすい。……逆にジェネラリストを求めている企業はあるのだろうか? 管見の限りではあるが、そういった職業はあまり思いつかない。
だが、それでも良いのだ。たとえばaのスペシャリストであった場合、aの技能を用いる企業からの覚えはめでたいことこの上ないだろうが、他方bやcの技能を用いる企業からは見向きもされない可能性がある。
だが、aもbもcも少しずつ齧っているジェネラリストの場合、企業から渇望こそされないかもしれないが、a関連の企業からもb関連の企業からもc関連の企業からも多少の興味を持ってもらえるで、もしかするとその中の一企業に重用され立身出世できるかもしれない。まつりちゃんの言をもう一度引用するなら、「その中の一個でも何かができたら嬉しい」。たくさんのことをやっていれば、「数打ちゃ当たる」の戦法が使えるわけだから、ビジネス的に成功できないということはない。戦い方がスペシャリストとは異なるとはいえ、活路はあるのだ。

最後に

そんなわけで、まつりちゃんの発言と偶然出会ったことで、私の中にあった「やり遂げなければ意味がない」信仰や「スペシャリストこそ正義」信仰は打ち砕かれた。そもそも、飽きっぽくて好奇心旺盛な人間が、かかる信仰心を持ったまま幸せになれるわけがなかったのだ。今回の改宗によって、より自分の気持ちに素直になり、気楽に生きられる道が見つかったことを本当にうれしく思う。

そして、似たような悩みを持っている読者諸兄諸姉、特に高学歴の人やエリート志向の人に多いように思う(無根拠)が、あなた方も本noteを読んで、もう少し肩の力を抜いて生きてみてはいかがだろうか。筆者とまったく同じタイプの転回はないかもしれないが、何らかのヒントくらいにはなるのではなかろうか。

まつりちゃんありがとう。本当に感謝しています。切り抜きだけじゃなく配信も見に行くね。


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