人間の階層構造(試論)

近頃、多少思うことがある。
「自分の中の理性的な部分」と「自分の中の感情的な部分」が衝突する機会が増えている気がするのだ。(以下、双方を括弧付きの「理性」「感情」と表現することにする)。

「理性」は「感情」の振る舞いを否定し、なかったことにして、主人たる「私」の決定を左右してこようとする。他方、「感情」も「私」の身を慮って、「理性」にのみ従うことのストレスや絶望から「私」を救おうとしてくる。

一般に、「理性的」という単語は巷間では好感を持たれやすいポジティブな言葉としてとらえられ、「感情的」という単語は野蛮でネガティブな言葉として捉えられる。
ただ、私の中ではこの二者の間に優劣はないと考えている。どちらが偉いわけでも、どちらがより善であるというわけでもない。単に異なる意見を持った「人格」が、「私」の中で同居しているというだけの話だ。

さて、「理性」と「感情」は正反対の意見だけを持つわけでもなく、補完し合う関係でもない。であるから、ときには同じ意見を持つこともある。たとえば、筆者の「理性」と「感情」は、両方とも「性欲そのものは醜く、暴力性を孕むものだ」「性交渉は互いを必要以上にさらけ出すことを強制してしまうので好きではない」といった意見を持っている。

だが、筆者は一定の性欲を持っている。
「理性」も「感情」も性欲を悪だと見なし、醜いものとして斥けようとしているにもかかわらず、「私」の中から性欲を排除しきれていない。
……では、何が私をして性欲を抱かしめているのか? 筆者はここで、ひとつの仮説を立てた。

「人間三階層仮説」

世の中をざっと見まわしてみるに、「人間は理性と感情の生き物だ」という意見が多いように思う。これを「人間二階層仮説」と呼ぶことにしよう。
本仮説をわかりやすく表現するなら、下記のようになる。

「私」=「理性」+「感情」

だが、先述の通り、この仮説では筆者に性欲が存在することを説明できない。「理性」も「感情」も「エロはダメ」と思っているのに、「私」は一定以上、性に対する興味を持っている。上の式に当てはめて考えれば、左辺には性への志向があるのに、右辺には性への志向がない(マイナス方向にはあるかもしれない)。これでは数式として破綻してしまっているのである。

そこで私が立てた仮説が「人間三階層仮説」である。かかる仮説では、右辺に第三項が加わる。すなわち下記の通りだ。

「私」=「理性」+「感情」+「本能」

この式を用いれば、筆者の心境はうまく説明がつくのではないだろうか。
「理性」も「感情」も性を否定しているが、「本能(ここでは生殖本能だろうか)」は性への志向を持っている。ゆえに「私」も性に対し一定の興味を持っている、というわけだ。

本仮説の使いどころ

おそらく本仮説は、アンビヴァレントなものをうまく説明し得るのではないだろうか。

①怖いもの見たさ
「理性」:ー
「感情」:どうなっているのか知りたい
「本能」:怖いものから逃避したい

②ダイエット中に好物を見つけたとき
「理性」:食べると太るという事実を提示する
「感情」:太りたくない
「本能」:好物を口にしたい

③ある人の性格は嫌いだが、仕事は評価している
「理性」:仕事を評価する
「感情」:その人の性格を嫌う
「本能」:ー

④ある人が生理的に受け付けないが、仕事は評価している
「理性」:仕事を評価する
「感情」:ー
「本能」:その人を拒絶する

本仮説の問題点・要検討点

さて、このように人間の抱く気持ちを、ある程度見通し良く分析できる仮説だということがわかった。
だが、まだ問題点や検討すべき点がある。それを列挙し、可能ならば解決するためのきっかけくらいは書いておこう。

「本能」という名付け方は適切か?

本noteでは仮に「本能」と名付けたが、それは果たして適切な呼び方なのだろうか。「欲求」「衝動」など、近しい情念が存在するように思えるが、本当にその中で「本能」という呼称を選ぶべきだったのだろうか。

「本能」にはどのような想念が分類されるのか?

筆者の例や先ほどの数例にて、「本能」には生殖本能・食欲・防衛本能などを当てはめてみた。ほかにはどのようなものが「本能」に分類されるのだろうか。また、「理性」「感情」「本能」のいずれにも分類しがたいものは存在しないのだろうか。

三階層だけですべてを説明しきれるのか?

いわゆる「ジレンマ」「トリレンマ」までなら、おそらく本仮説に当てはめてキレイに説明できるだろう。だが、もっと込み入った複雑な葛藤ならどうであるか。
無論、各階層それぞれにひとつしか情念を代入できないわけではない。「理性」にはAとB、「感情」にはCとD、「本能」にはEとFとG、といったとんでもない例も想定不可能ではない。
だが、もっと深く考えなければいけない例が存在しないとは限らない。四階層以上の例を仮定することで、本仮説はもっと強固になるだろう。

「感情」≠「本能」なのか?

「本能」という呼び方にも関係してくるが、「本能」と「感情」は本当に別のものなのだろうか。ある特徴を持った感情が「本能」と呼ばれているだけなのではないだろうか。もしそうだとすれば、「本能」は「○○的感情」というような呼び方をすべきかもしれない。
さらに一般化するなら、「感情」を「第一感情」、「本能」を「第二感情」というように、インデックスを付した呼び方を採用しても良いかもしれない。

そもそも階層なのか?

のっけから「階層」という呼び方をしているが、本当に「理性」「感情」「本能」は階層構造になっているのだろうか。先述の通り、私は「理性」と「感情」に優劣を認めず、同格な別人格としか考えていない。であればそれは階層ではなく、横並びの並列的な関係にあるのではないか。
……ということは、「人間三階層仮説」ではなく「人間三情仮説」とでも呼ぶべきなのかもしれない。

截然と分けられるのか?

筆者の例や先掲の例では、比較的「この情念はここに分類される」ということが截然と区別できた。しかし、たとえば7割は「理性」で3割は「感情」のような、グラデーションのある情念は存在しないのだろうか。
かかる情念があった場合、もっとしっかり観察&要素に細分化し、各要素を「理性」「感情」のそれぞれに分類してあげれば良いかもしれない。だが、そういった細分化が不可能な情念があるかもしれない。この点ももっと考えなければいけないだろう。

最後に

にんげんってむずかちい。

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