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くせ毛15年闘争

15年間にわたってうねった髪の毛と闘うも、共生することにした。

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 小学校も高学年に上がった頃から、くせ毛に悩まされていた。思春期特有の”かわいく見られたい””好きな人によく思われたい”と自分の外見を気にしはじめる時期とほぼ重なり合って、今までまっすぐだった髪の毛が急にうねりはじめた。まだ自分でお金を稼いでいないから、という理由でストレートパーマは禁止され、ヘアアイロンだけは懇願して親に買ってもらったけど、水泳の日と雨の日にはほとんど効果がない。思春期のまだ自分が定まらない不安定で暗く沈んだ気持ちと重なって、とにかく髪のうねり具合によって気分が左右されていた。担任の先生から嫌われていることを何となく察知していたときも、クラスの女子との関係性が少しずつぎくしゃくしていったときも、わたしの髪はうねっていた。

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 そんな日々にピリオドが打たれたのが高校生のころ。親に許されてはじめて縮毛矯正をかけた。決して安い金額ではなかったけれど、わたしの髪は特に手を加えなくてもまっすぐになった。うねる前髪をずっと心の片隅で気にしなくても、わたしの前髪はいつもまっすぐだった。わたしは視力も悪かったから、ちょうど同じ頃にコンタクトレンズに変えた。心の中のまがって枯れていたものが、水を取り戻してまっすぐになった気分だった。あのとき芽生えたほんのちょっとの自己肯定感はその後のわたしを少しだけでも支えてくれていたと思う。

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 それからは定期的に縮毛矯正を続け、大学生になると、バイトで貯めたお金で縮毛矯正できるようになった。コンタクトレンズも自分で買えるようになった。ずっとなりたかった理想の自分の外見。

 しかし、そんなわたしにも転機というものがやってきた。ただ転機がいきなり目の前に現れたのではなく、わたしが経験したこととか、感じていたこととか、少しずつ自分の中でちがう自己肯定感が生まれる予兆みたいなものは無意識に感じていたのだと思う。初めて恋人という存在ができて、だんだん自分自身のありのままを家族以外の他人に少しずつさらけ出していく中で、うねった髪とか、眼鏡とか、気にならなくなっていった。”好きな人によく見られたい”というあのころのぐらぐらした気持ちからはじまったくせ毛との闘いは恋人ができてはじめて、"闘い"ではなくなっていった。

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 恋人とは結局別れてしまったのだけど、その人との関係のなかで、見た目は清潔に整えてさえいればあとはもうあんまり関係ないのだ、と気付いた。別れたあとはストレスからか、少し白髪が増えた。髪にも長年ダメージを与えすぎてしまったなと感じ、縮毛矯正もやめた。ドライアイもあったから、コンタクトレンズもしなくなった。

 久しぶりに髪を短く切りたい、と思い立った。しかし、いつもの美容院は移転してしまっていた。以前縮毛矯正をする前に少しだけ通っていた美容院に久しぶりに行ってみることにした。そこの美容師さんはとても腕がよく、他の美容師さんなら「これ以上切りすぎるとくせ毛さんは髪が広がってはねてしまうからね~」と言いそうなところでも、潔くばっさり切ってくれた。まとまるヘアスタイルと広がるヘアスタイルのギリギリラインの見極めがよいのだろう。わたしはそのニューヘアスタイルを一瞬で気に入った。もともとのうねりを生かした、とっても軽い感じのベリーショート。お手入れもとても楽で、髪も全然広がらない。この髪型で一生いいかも、と初めて思えた。眼鏡は背伸びしてちょっといいものを買った。自分の肌のベースに似合う色から、やわらかい色で丸いフォルムの眼鏡を選んだ。

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 わたしのくせ毛闘争はこれにて落ち着いた。20代半ばになった今、小学生時代の鬱々した気持ちとはまた別のことで鬱々したりしているけれど、それでもひとつの闘争を終え、髪をまっすぐにしたときに感じた自己肯定感とは違う、ちょっと種類の違う自信みたいなものを感じる。髪はもうまっすぐにしないし、コンタクトレンズも式典のときだけしかしないだろうけど、もうこれでいいやと心から思える。投げやりな気持ちではなくどこかあたたかい感じで。今のヘアスタイルと眼鏡のわたしが、わたしらしくて好きなのだ。年齢を重ねるってこういうことなのかな、とちょっと思った。





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